100回目の投稿です。七か月半を要しましたが、何とかここまで続けることが出来ました。少しでも関心を寄せていただき、目を通していただきました皆様に感謝いたします。
100回を迎えるにあたって、私自身、一から全ての投稿を読み直してみました。1.~15.までは、私の主張したい新ハルモニア主義について語ったものですが、それ以降は、その時々の時事ネタを新ハルモニア主義の考え方で少しづつ料理したものとなっています。その中には皆様にお伝えしたい事や、ときには、特定の対象の方へのエールやアドバイスも記してきました。
全編から私自身が強く再認識したことですが、我々弱い民衆が少しでも幸せになるための鍵となるのは、利己を意識しつつ、いかにひと(他人)の立場になって考えられるかということでした。利己の中には己の欲を達成しようとする気持ちが多く占めてられています。しかし、欲は幸せとは同一ではないということを理解しないといけません。いろいろな欲を遂げることが幸せだと考えるとひとは必ず他人を犠牲にすることを避けられなくなります。そしてそのことが、世界の、そして社会の災いの源となってしまいます。夫婦喧嘩、親子喧嘩のような小さな諍(いさか)いから、果ては戦争に至るまで、他人の立場になって考え、他人と寄り添う努力をすることでそれらの争いは平和的に解決できると信じています。幸せは平穏の上に宿っているものなのです。そう言う意味でも、ブログ開設後で最もショックな出来事はやはりロシアによるウクライナ侵攻でした。ウクライナの惨状、特に何の罪も無い市民、幼い子供達の立場に立って考えるとこれほど悲惨な事はありません。そこでプーチンと言う人が、そのような現実を見ても、平気で戦争を続けていられることに信じられない思いです。そういう事で、ひとはみんな利己に揺り動かされるものではありますが、そうだからこそ、他人の立場になることの重要性に思いを強くしたのでした。
次に、重要なことは、民衆の立場に立ってことを運ぶことができるリーダーを我々民衆が見つけ、選択し、支援することです。残念ながら、現在の選挙制度はそのようなことを実現するには非常に不向きなものとなっています。心の中で自己の欲望(富、権力、名声の獲得)を達成したいと考えている政治家や官僚幹部が生まれやすい制度になっています。
このような政治の下で、個々の民衆の回りにも、理不尽なことが蔓延しています。いろいろな事件は個々の犯罪であると片付ければそれまでですが、それを生む温床は政治や教育が作っていると言ってよいと思います。差別やいじめ、ハラスメントなども、綺麗事の施策でお茶を濁すことでは解決しません。弱者である人々の立場に立って考えることが必要だと思います。
そして、富の問題です。我々は生物の一種です。衣食住、それを支えるエネルギーなどが無ければ生きていけませんし、富が足りなければ争いとなります。幸せになる為にも、ある程度の富が必要ですが、現実は富は極端に偏在しています。人類は一生物種としては増え過ぎているのは事実ですが、もし太陽と地球の恵みを多くの人達に行き渡らせ、その環境の中で人々が真面目に働けば、みんなある程度豊かな生活が可能なのです。
このブログで、いろいろな問題、事件を取り上げる度に、今まで述べたような思いが強くなっています。あるべき姿は明確なのですが、そこに辿り着く道筋は非常に険しいのも事実です。弱虫の私は、このような考えを伝えることで精一杯ですが、出来れば私の思いに賛同いただける次世代を担う人達の羅針盤となれれば幸いです。
究極は、地球規模の改革、人類全体での協調が必要です。その為には、民族、宗教、主義などの違いで争わないで、異なる考えを理解し尊重し合える国境など存在しない世界が理想なのです。このような高度で成熟した世界が人類の未来であることを強く願っております。