祝日に街を歩いていますと、幼い子を連れた親子連れに多く出会います。幼子達は無邪気に親にいろいろと話かけたりしていますが、ちょっとした掛け合いでも、非常に楽しくケラケラ笑っています。誰でも、幼いときはちょっとした事でも感動し、生きていることを理屈抜きで楽しんでいるように思います。成長するにつれいつの間にかそのような感動を感じられなくなるひとが多いのではないでしょうか。その代わりに定型的な欲望が増えて来ます。富や地位や能力など他人と比べて上か下かというようなものさしを持ち出すことが多くなります。
幸せというものは千差万別なものと思いますが、誰とも比較しやすい富などの指標で、幸せかどうかと評価してしまっているのです。そのことが本当は身近に存在している幸せを遠ざけているのです。幼子にはそのような視点はありません。心底から捉えた心情を素直に表すことができるのです。そのような感情を思春期以降も残しているひともいます。幸せについての感受性の高いひとです。何故、多くのひとは、成長とともにそのような幸せへの感受性が低下してしまうのでしょうか。それは多分、人間が独り立ちして生きていくには、現実というものを強く認識し、食べていくための営みをしっかりすることが優先されるからだと思います。いろいろなことに感動し、夢みたいなことを描いてばかりいては、食べていけないからだと思います。その為に、思春期以降、自己への意識が芽生え、自己の生命維持の為の行動、社会的な活動を進め、その為に、自分自身と他者を強く意識することで、他者との比較をも意識するようになっているのだと思います。
しかし、動物のように食べて、子孫を作り育てることだけでは満足になれないのが人間というものなのです。生き甲斐が必要となって来ます。そして、そこに幸せという感情が必要となる訳です。
整理しますと、生物の本能で人間も生きていくことそのものが最大の仕事となります。しかし、人間だけは、ただ単に生きていくことだけでは満足できないように進化して来ました。大昔の必死で食うことで精一杯の時代から進歩し、少しづつ余裕か出来てきました。その余裕で、人間は考えることを発達させてさらに進化して来たのです。その中に、生きていく意味や目的を考えるようになって来たのです。
食べていくこと自身は、人間にある程度共通的なものですが、何を目的で生きていくかということは個々人によって異なるものです。それなのに、食べていく(生きていく)ことに直結する富や地位などを人生の目的と見間違ってしまう傾向があります。その為に本当の自分が欲していることに気付かず、幸せを遠ざけてしまっているひとが多いのです。幼子のように、純粋に何に感動するのかということを見いだせれば幸せな感情を得られるのです。世間で言われている富や地位などは忘れて、何が自分に一番感動を与えてくれるのかを見つめ直してください。そこに幸せのヒントが隠されていると思います。もちろん、幸せを考える余裕を持って生きていくのに最少限必要な富を獲得していくことは必要ですが。