終戦記念日前後に、多くの戦争の記事や番組がありました。その中で印象に残った記事は、満州で終戦を迎えた日本兵が、その直前に不戦条約を破棄して攻め込んで来ていたソ連軍に捕まり、シベリアの収容所に収監され、乏しい食料と極寒のもとで厳しい作業を強いられた中を生き延びた話です。驚いたのは、日本に帰国した後、現地で関係のあったロシア人と交流し、それが各々の子供にも続いていると言うことでした。敵として対峙したときは、相手を殺そうとし合った関係だったのですが、捕虜として接したロシア人は人間としての暖かさがあったのでした。人間対人間として、交流して判ったことは、お互い憎むべき相手では無く、友情を交わせるような人間だったのです。
戦争とは、国が異なるだけで、良い人かもしれないひとでも無差別に殺そうとする非常に理不尽なものなのです。国は敵国をすべて悪であると誘導し、その国民もみんな鬼畜だとして殺戮せよと戦いに送り込むのですが、実際はそんなことはないのです。どんなに敵視し合っている国同士の国民でも、平和裏に話し合えば、友好的に接することができるのが真実なのです。このような庶民レベルの交流が可能であれば、諍い(いさかい)は話し合えば解決できるのです。逆に、そのような愛すべき人同士でさえも、無差別に殺戮し合うのが現実の戦争なのです。
それなのに、なぜ戦争を起こそうとするのでしょうか。それは、度々述べていますように、一部の権力者や富裕層とその取り巻きが、自らの富、特権、地位を守るために起こすのです。彼らにとって、一般民衆の命など取るに足らないものなのです。多くの人々を幸福に暮らせるようにするために苦労するより、民衆のことなど軽視して、力で支配する方が手っ取り早く、自分達の目的を達成できるのですから。
だからこそ、我々一般民衆は、そのような一部の特権階級の人達のまやかしの戦争論に決して乗ってはいけないのです。いくら権力者であろうと、大多数の国民の支持を得られなければ、そう簡単に戦争を始めることは出来ないのです。是非、ロシアの一般民衆が目を覚まして欲しいです。ロシア人と日本人にさえ友情が芽生えるのですから、いわんやロシアとウクライナはもともと兄弟のようであるのですから。