今年実施された文化庁の「国語に関する世論調査」では、言葉の使い方、意味の理解などが、時々刻々と変化していっている結果が如実に表れています。
中には、本来の意味とは異なる意味で理解している人の割合が多いケース、例えば、もともとは一時的な、急場しのぎの、間に合わせを示す「姑息」と言う言葉は、卑怯な、こせこせしたさまを表す言葉として理解している人の割合が74%にも達するようになっているそうです。「役不足」も、そのひとの持っている能力より軽すぎるという本来の意味の反対の意味である能力不足を示すことに使われると理解している人が過半数を超えて来たとのことです。
このように同じ言葉が異なった意味、正反対の意味に解釈するひとが多くなると、正確な言葉のやりとりが出来ません。
我々、人間は、言葉を中心にコミュニケーションをとっているのですが、それは皆が同じ意味に理解するということを前提で成立しています。それこそ外国語を理解できなければ、その国の人達となかなかコミュニケーションをとるのが難しいのが典型的ですね。
このようなコミュニケーションの不成立や誤解が生じることで、争いが生まれていくケースも多々あると思います。人間同士は、本来、きちんと相手のことを理解することができれば、あまり争いは生じませんが、コミュニケーションが不十分であると、お互いの勝手な思い込みや先入観が勝ってしまい、相手を敵視したりすることが発端で争いとなるのです。
私は、争いの種があっても、話し合いで解決すべきだと主張していますが、コミュニケーションがまずいと、話し合いもうまくいかず、最も避けなければならない筈の暴力沙汰や国家間では戦争となってしまうのです。
国会などの議員のやりとりでも、相手の言いたいことを理解する努力もしないで、一方的に自説を押し通す場面がよく見受けられます。国民の代表がこのざまでは、国がひとつにまとまるなんて出来ない相談だと思います。このようなことを避ける為には、相手の立場や背景をよく調べ、理解し、何でそのようなことを発言するのかと言うことをお互い考えるように努めなくてはなりません。また、少々の言い間違いや誤解は、きちんと訂正すれば許す姿勢が必要で、執拗にそれを追求していては、核心の議論に到達する訳はありません。お互いが、相手を理解しようと努める基本姿勢があれば、必ず話し合いでお互いの妥協点が見い出せるのです。
そういう意味で、国会で行われた野田元総理の故安倍元総理への哀悼演説に感銘したひとが多かったのは、彼がお互いの立場や考え方を理解しつつ、話をされたことが功を奏したのだと思います。このようなやり方が、この国の民主主義政治に必要だと言われていた方もいましたが、私も同感の思いを持ちました。日本の舵取りを担う国会と言う場では、相手のあら捜しではなく、本当に国民の為の政治を実施する為の意義深い議論をしていただきたいと思います。もちろん、私達庶民のレベルでも同じことが言えます。すべてのコミュニケーションに通じますし、あらゆるいざこざを防ぐことも出来ると思います。
コミュニケーションは難しいものですが、そのことを深く認識して、相手を理解し、自身を理解されるようにする努力を惜しまず、話し合って行くことで、この世から争い、戦争は無くなるのです。