イスラエルへのハマスのテロ攻撃に端を発した紛争は、イスラエル軍のガザ地区への地上部隊の投入が迫っています。これまでに既に双方の死者は数千人規模になっていまして、今後の侵攻によりさらに多数の死傷者が出ると見られています。
イスラエルとしては、ハマスの大規模テロにより、多数の自国の民間人が死傷したことへの報復であると正当性を唱えていますが、ガザへの侵攻が始まれば、パレスチナの民間人が多数死傷することの理由とはなっていないと思います。イスラエルは、人道街道を設定して、民間人の避難を認めていることで、民間人への攻撃は意図していないとしていますが、現実問題、どれだけの人が避難出来るか疑わしいし、先行き不透明な避難をしたくない人達も沢山いると思います。
米国のバイデン大統領やヨーロッパ諸国もイスラエルの攻撃に対して支持を表明しています。ガザの民間人の命を軽視しているとしか感じられません。それこそバイデン大統領は選挙に向けて自国内の多数のヤダヤ人の票を期待して、そのような言動につながっていることは明白です。
多かれ少なかれ、権力者というものは、目的の為であれば、弱者の犠牲など平気で容認してしまうのです。
権力者は自分自身で、武器を持って戦うわけではありません。それは、ロシアでも、中国でも、北朝鮮でも同じで、最前線の兵士や紛争地域の民間人などの命への軽視は続いています。
昨夜、NHKの大河ドラマで、豊臣秀吉の晩年の姿が描かれていましたが、それこそ己の欲望達成の為には、朝鮮人や派遣されて戦う日本人の命など使い捨ての道具としか考えていないことが浮き彫りになって来ます。
本来、人間はどんな人であろうとそれぞれひとつの命しか持っていません。個々人にはかけがいのない命を平気で使い捨てするのが、権力の恐ろしさなのです。
権力者は国の為、国民の為、とか言って平気で弱者の命などを奪うのです。第二次世界大戦後、民主主義の国々は人権・人道と叫んではいましたが、何か問題があると、大の虫を生かして小の虫を殺すという論理で、弱者が見捨てられて来ました。
自分が殺される立場、見捨てられる立場になったときのことを想像してみてください。最近の為政者達は、どうもそのような想像が出来ない本当は人の上に立つ器量の無い人達ばかりのような気がします。
争って自分の命が奪われる危機を考えれば、お互い、協調して生きて行く方がずっとましなのは明白ですが、残念ながら、権力と言う多大な力を持つと、自分は偉大であり、多くの力で守られていると勘違いしている権力者が他人の命などどうなっても知らないと本音では思っているのでしょう。だから、そのような安易な殺し合いを続けてしまうのでしょう。
この殺し合いを止めるには、ハマスが何故にこのような行動に出たかを掘り下げて、そこに手を差し伸べることが必要なのです。もちろん、今回のようなテロを容認するつもりはありませんので、そこに関わったものへはきちんと罪を償わせるべきであるとは思いますが、殺しには殺しということを続けていては、何の解決にもならないと思います。