来年度予算の与野党間の攻防の中で、高校の無償化が進みそうです。党によっては、ここで終わるのでは無く、大学無償化につなげたいと主張しています。

 このような動きの背景には、教育の平等という大義名分をあげているようです。人は等しく教育の機会を持てるようにすることが社会の平等であるとの主張であります。

 しかし、高校や大学の授業料を免除されたり、補填を受けたりすることが、教育の平等と言えるのでしょうか。私の考えます教育の平等とは、ひとりひとりが社会に貢献出来るように、本人の適性にあった進路に進むことの機会を公平に保証することが重要だと思うのです。高校、大学に進むことだけでは、それは不充分です。逆に、大学で勉強することはもちろん意味がありますが、それは全ての職業に通じている訳ではありません。高校、大学での勉学の内容とは違う内容が必要な道も多く存在しています。そのひとつが職人的な専門技術を習得することです。例えば、調理や美容や服飾や工芸などと言ったものは、早い段階から専門教育を受けることが有利だと思います。専門学校と言われている分類にあたる教育です。これらは社会に絶対必要な機能を担っていますが、一部の超一流と言われる専門家を除けば、社会的なステータスはそれほど高くないような気がします。また、専門学校でも教えられないような匠な技術は未だその職業に弟子や見習いとして入り、鍛えられていかないと習得出来ないものもあると思います。

 言いたいのは、それぞれの道に優劣は無いことの基本的な認識の上に立ち、どの道に進んでも、公的な支援が同レベルで受けられることが、平等な教育というものだと思います。

 大学を目指して受験勉強に励んでいる人達の中にも、本当の適性はもっと別の所にあり、あまり得意ではない受験科目に悪戦苦闘しているひともいると思いますが、親や回りの人間や世間が画一的な進路しか認めようとしないことで、嫌々受験勉強をしているという悲劇を生んでいるのもよくあることだと思います。そのような中で、脱落という悲劇も生んでしまうのです。

 だから、何が何でも高校、大学で勉強することで平等を謳うのは間違っているのです。ですから、高校や大学を無償化するだけではなく、それ以外の道に進む人達にも、同等レベルの支援をすべきです。無償だからと、高校、大学にとりあえず進学して、好きでもない科目にヤル気も無く、キャンパスライフを遊びやバイトを主体として、時間を浪費することは非常に無駄ですし、そんなことの為に税金からお金を支出するのも非常にもったいないことだと思うのです。学校で教える側だって、せっかく熱心に指導しても暖簾に腕押しであれば、これももったいないことです。

 もうひとつの観点は、貧富の格差のある社会で、全てを平等にしようとする無駄です。経済的に裕福な家庭の子供は、税金から支援などしなくとも、何の問題もありません。そんなことに限られた税金を使うよりは、それをもっと有意義な所に使用する方が重要なのです。経済的に、進学にかかる費用を負担出来ないような子供にきちんと支援し、どんな家庭環境の子供であっても、適正があり、ヤル気があるのであれば、望む道を進めるように、社会が寛容な心を持ち、公的に支援することが本来の教育の平等なのです。