ほとんどの人間は大なり小なり偏見を持ってしまう傾向にあります。それは人間の弱さに潜む間違った処世術かもしれません。強そうなものに属し、弱いものを差別することで、自分を守ろうとするような処世術です。いじめの形にも、同じような構図が見られます。

 どんな人でも、全ての人を愛したり、好きになることは出来ません。好きなタイプもあれば嫌いなタイプもあり、それがそれぞれの人間の性格や趣向に左右されているとも思いますし、生理的に好き嫌いが決まることもあると思います。その自分の好みと大きな括りの人間の分類がたまたま合うことがあると思いますが、それで、その分類に当てはめた人を全て嫌いと判断する傾向もあると思います。これこそが偏見であることがほとんどなのですが、それを客観的に否定することが出来ないのも人間の性(さが)かもしれません。

 私自身、そのような偏見を持つこともあります。しかし、今は、そのような偏見こそが、人間が憎しみあい、争うことの根本原因であると理解していますので、なるべくその偏見の気持ちを振り払おうと努力しています。

 これまで人類が経験したいろいろな事柄を知り、またそれらから得られた知見やその考察を為して来た先人の遺したものを知るに至り、冷静に判断していきますと、国、民族、人種、性別、宗教、主義などで、人間を一括りにすることは分類学的には意味があると思いますが、その分類が、個々の人々のことを説明出来るものではないということが、良く分かります。そのような括りをいくらしようが、個々人のレベルでは、善人もいれば、悪人もいるのです。

 ですから、いろいろな括りで、そこに属する人のことをああだこうだと決めつけてしまうことは止めようと思います。それより、自分から見て、感じて、話して、聴いて、その人を理解することに努め、それによって自分なりの評価をすることにしています。

 みんながそのように処するようになれば、国、民族、人種、性別、宗教、主義などで括った分類間での争いは無意味になると思います。そうです、そのような括りで争うことも無くなると、戦争などをする意味も無くなるのです。

 人間同士、いろいろな主義、主張、生まれがあっても、相手の立場に立って考えれば、尊重し合えることが出来るのです。相手を尊重するということは、相手も自分を尊重することになり、そこに初めて、本当の自由な社会が形成されるのです。

 そして、そのような偏見の括りを越えて、社会の悪に多くの人達が対抗するようになったときに、本当の平和で、多くの人が幸せを追求出来る社会が実現出来ると思います。



投稿者

弱虫語り部

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