前回のブログで、原子力発電についていろいろと述べました。その前のプログで、自然への畏敬についても述べました。この二つのブログは一見矛盾しているように見えますが、私の中ではそうではありません。自然を尊び大切にすることは非常に重要であり、人間が都合良く自然を破壊すべきではないし、自然との調和をもって生きていくべきであると考えていますが、一方、人類が少しでも豊かで平和な生活をおくれるように、英知を結集して科学技術を進展させなければならないとも思っています。人間が生む科学技術、その産物をいかにして自然と調和させるかということも早い段階で計画し、実行されなくてはならないのです。
長い歴史の中で、多くの発見、発明が為され、人間の暮らしを豊かにしたのは事実です。しかし、不幸なことに、それらの科学技術を自然との調和の中できちんとコントロール出来ているかと言ったらそうではないのも事実です。太古の大きな発見であった火をおこして必要なときに火を活用することができて、人間の生活が大きく変わりました。これだけの長い歴史のある発見も、未だに火の不始末により大きな被害が出ています。自然がもたらす火山や落雷による火災事故を制せられていないのはまだしも、人間の火の使い方によって火災を起こす原因になっているのが現実です。多くは人間のいい加減な行動に起因するものです。このような有益な技術も、裏には必ずマイナス要素が潜んでいます。素晴らしく効果のある薬にも副作用が存在するように。それが技術の宿命なのです。だからこそ、ひとに役に立つことも使い方によっては一方でひとに害を与えるということをよく承知しないといけません。その認識の上で、様々な技術、産物を活用すれば人類の豊かな生活につながるのです。
最近、プラスチックによる海洋汚染問題が叫ばれて久しいと思います。それで、生活に多大な便利を与えていたプラスチック類が諸悪の根源の如く言われて、できるだけ使用しないようにと言う方策があたかも正義のように言われています。例えば、買い物袋や食器、衛生用品など使い捨て用品をなるべく使わないようにと声高に、それも環境省など政府も叫んでいます。もともとプラスチックは安価で大量生産可能で、耐久性も良く、軽く運搬も楽だなど数多い利点を持っていました。一方、自然界にはプラスチックを分解する菌なども少なく、海洋などに投棄されると生態系に影響を与えることが大問題となって来たのでした。しかし、そもそも漁業関連のプラスチック以外のものが、海洋に投棄されることがおかしいのではないでしょうか。プラスチックをそこらじゅうに捨てる人間が多くいること自体が問題なのではないでしょうか。決められた場所に捨てられ、回収され、リサイクルされれば大きな問題にならなかったと思います。もし早い段階でこの製品のリスクを考え、その使い方をきちんとルール化していれば、こんな状態にならなかったと思います。一番の責任はポイ捨て、不法投棄をする我々ですが、性悪説に立って早い段階からそのようなポイ捨てを禁止したり、防ぐ手段を講じてこなかった政府の責任も大きいと思います。
原子力発電も、コントロールの仕方を間違ってしまい、世間から危険極まりないものとばかり攻められて、政治家もこれまで投資した膨大な費用も無かったかのように、臭いものに蓋をしようとしてします。
有用な技術はその副作用も考慮した上で、どうコントロールして活用していくかをきちんと考えておかないと、開発に携わった科学者、技術者達の苦労も無にされることになるのでしょう。もちろん、科学者、技術者にも責任はあります。進歩的な技術ほど政治家は飛びつきますが、最初は利点ばかりにスポットライトを浴びせて国民の目をくらまして、実用化を急がせます。その時点で科学者、技術者が、きちんと副作用も示していればいいのですが、政治家や経営者にたてつけず小さな声でリスクをつぶやくに終わっていることもあるでしょう。我々国民も少しでもマイナスなことがあると反対する風潮があるのもこのような構図を作っていることの一因となっているとは思います。結局、科学者、技術者、政治家、官僚、国民とも、まだまだ未熟なのだと思います。そうでなければ、有用な科学技術の発見、発明、実用化はきちんとコントロールされて活用されているはずです。
物事にはすべて光と影があるように、メリット、デメリットがあります。重要なのは、専門家や政府、官僚は、それを意図的に隠さず、国民にさらけ出した上で、こうこうこういう理由でこの方策を選ぶということを説明しなければなりません。それを聴く我々国民も冷静に判断しなければなりません。成熟した社会とはそのような関係だと思います。そのような構図を持つ社会になれば、科学技術というものも、もっと安全に豊かさ、便利さを提供してくれるでしょうし、我々国民も活用にあたり、きちんとルールや使い方を守らないといけないと思います。