中学生同士の殺人事件が報じられました。詳細はまだよくわかりませんが、いじめを含むトラブルの末の犯行のようです。2004年に、長崎の小学6年生が学校で同級生を殺傷した事件を思い出しました。その後この事件までに、4件もの中高生の学校での傷害事件が発生しているそうです。このような事件が少ないとは言え、繰り返される背景には複雑な事情があるとは思いますが、やはり現在の教育システムにも問題もあるのではと思ってしまいます。
学校というもの、子供が成長していく過程で、個々の家庭では成し遂げられないような学びを提供する場であるのですが、その内容が今のままで良いのでしょうか。特に問題であると思うのは、受験を意識した知識の詰め込み、綺麗ごとと思われる道徳教育が未だに続いている事だと思います。
学問には色々な専門分野がありますが、特に、小中学の義務教育において、そんなに幅広く、多くのことを覚える必要があるのでしょうか。実際、皆さんが大人になって感じていることは、受験などの為に詰め込んだ多くの知識が、ほとんど活用されていない、ほとんど覚えてもいないことではないでしょうか。私の個人的な感覚では、読み書き算盤ではないですが、ひととコミュニケーションをとるための国語の基礎知識、生活するために必要な算数、理科、社会の基礎知識さえあれば充分だと思います。その他、健康的な生活を送るための体育・保健、豊かな生活を送る為の、音楽・美術、外国語なども必要だと思います。これらを最低限必要な知識として、ゆったりカリキュラム化されていれば、後の時間は、社会で生きていくための人間としての生き方、コミュニケーションのとり方、社会の一員としての協調性の会得などに多くの時間を費やすべきと思います。授業という形式以外に、課外活動、クラブ活動、社会奉仕活動、職場体験などのようなことも有効だと思います。生きていく上で特に必要なのは、自分ひとりでは生きていけない、みんなで協力して少しでも多くの仲間が幸せになるように、自分の考えを伝えたり、他者の考えを理解したり、他者の身になって物事を見たりすることを多く経験できるような機会を作り、その中で人間的に成長していけるようにすることです。その為には、個々の親も教師もこのことを共通の理解として、行動していかなければなりません。
私の経験ばかり申してすいませんが、学校時代の記憶では、座学の詰め込み授業は非常につまらないもので、中高では、結構、居眠りをしていました。逆に、運動会、学芸会、文化祭、遠足、修学旅行などは、大変なこともありましたが、学友と喜びや苦しさなどいろいろなものを共有し、自身の人間的な成長に大いに役に立ったのではないかと思います。このような学友と共同して何かを為すという課題をもっと増やし(知識の詰め込みの座学を減らし)、その中に道徳的な観点も散りばめていくのがいいと思います。クラブ活動も、同じ目標に向かって、切磋琢磨することは、その中で生まれる軋轢も含めて、他人との関わり、挫折との闘いなど多くの学びとなると思います。そのような中に、ひととどう付き合い、争いをどう収め、他人の心に寄り添うことを学んでいけると思います。
ひとが集まると、いざこざや争いは必ず起こります。それにどう対処するかは、自身の人間としての成長につながりますし、どうしようもなさそうな悩みの対処として、相談や助け合いということを覚えていくことにもなります。ひとはひとりでは生きていけないし、また、誰ひとり独りぼっちのひとはいないということ、幸せになるにはどうしたら良いのかをよく理解することが、悲惨な事件を防ぐ本質的なことだと思います。このような観点で、教育システムを変革することも、新ハルモニア主義の大きな目標です。