テレビで、東大生にインタビューしていました。インタビュアーは東大は日本のリーダーたるべき人材を世に送り出すと言っていましたが、その考えが帝国大学時代とあまり変わっていないのに驚きました。さらに、インタビューされた学生が、自分は間違った場所に入ってしまったと悩んでいました。東大は、意欲のあるひとが入るべき所だと言う事だそうです。
このようなやりとりは、東大を外から見る目と内にいる人の目のギャップを象徴しているんだと感じました。人が人を評価するのは非常に難しいものです。だから、ついつい肩書を見て、こうだこうだと思ってしまいます。そのような歪んだ認識から、間違ったリーダーやエリートを作り上げてしまうのです。今の政治や企業の世界でも、人材不足と言われる所以です。様々な問題が起こる度に、間違ったリーダーや幹部のお蔭で、一般庶民にどれだけ苦難を与えているのかと思わざるを得ません。エリートの象徴が東大卒と言われているので、ここを題材にお話させてください。
東大に入る為には、厳しい受験戦争に打ち勝たないといけませんが、その中身は、いかに受験テクニックを身に着けるかだと思います。その過程で培われるのは、広範の知識の習得と問題を解く為の技術です。そのような修得には多くの時間を費やし、辛いことに耐え、遊びなどの誘惑に勝つ精神力は鍛えられるでしょう。しかし、残念ながら、社会に出て、指導的立場になったり、世の中に貢献する発明、発見をしたり、新規事業を創出するのに充分な資質を育成していることにはなっていません。東大の学生でも、一握りの人間はそのような能力を持っているかもしれませんが、それは東大で修得出来たと言うよりは、生まれ持った能力を発揮したと言った方がいいかもしれません(問題はそのような才能を持ったひとが東大の学生の主流ではないという事です)。そういう人達は、東大に入ることは単なる通過点でしかないのでしょう。一方、大部分の受験エリートでしかない秀才は、東大に入ることをゴールと勘違いし、大学生活に限界を感じたり、単位取得、卒業というハードルをこなすことに疲れ、卒業後は、ある程度の学力の高さと東大閥と言う人脈で、なんとか仕事をこなしては行きますが、エリート意識だけは高く、ひとの上に立てるような資質が不十分でも、運よくそう言う地位を得てしまっても、結局、成果(本人の出世ではなく、社会への貢献と言う意味で)を出せないのです。そして、なかなか頭角を現わせずに終わるひとが多いのも事実だと思います。
要するに、今のような受験制度、教育制度では、真のリーダーを育成できないと思います。なのに、世間からは東大卒だからエリートだと見られ、その勘違いをする人達によって、政治や経済などいろいろな世界で、社会発展に対して足を引っ張っているひともいると思います。真に日本を牽引するような人材を育成するには、受験学力を優先するのではなく、探求心、向上心、倫理感、特に、自分の出世欲より社会に貢献することへの意欲を持っているかで、選別し、そのようなひとには社会貢献への意欲をさらに活性化させるような教育環境を提供しなくてはなりません。そのような基本的資質が備わっているひとが大学という場で高度な専門知識を学ぶことでひとの上に立つ人材が出来上がるのです。
そのような過程で育まれた人材が今の日本に必要ないろいろな場面でのリーダーとなって活躍するのが理想なのですが、詰込み受験教育では無理だと思います。