前回のブログで、文通費についての騒動を述べていますが、この件についての国会の動きが我々国民から見て、大いに異常であると感じています。それだけではなく、18歳以下の子供への10万円給付の配り方の論争、石原伸晃氏のコロナ助成金受給、京都市議の政務活動費不正計上の問題など、次々に、議員のお金にまつわる話が出て来ます。これらを見聞きしていますと、残念ながら、多数の議員は国民より自身のお金が大切であると言うのが本音であると言わざるを得ません。
このような我々国民から見れば議員とはあるまじき行為と感じても、なかなかそれを改めることが出来ない状況がもどかしくてしようがありません。以前から述べていますように、人間の大多数は己のことを第一に行動する生き物ではありますが、議員や官僚、公務員など、税金から給料を貰っている公僕という職業のひとには、その本来の意味である、公のしもべとなって働いて欲しいと思いたいのです。江戸時代以前に遡れば、封建主義という、農民は武士という特権階級に労働の成果である米などの収穫物のかなりの部分を献上しなければならないにも関わらず、武力で守ってもらっているということで(実際は武力で脅されて)、虐げられても文句も言えないような状態でした。その反動と言いますか、民主主義では、議員など公務員は税金を負担する民衆の’しもべ’とならなければならないということで、公僕という言葉となったのです。しかし現実には、封建主義の時代と変わらず、特に議員などの特権階級は、人々が汗水垂らして得たお金から強制的に徴収した税金をまるで我がもののように消費しているのです。選挙のときだけ、国民の為に命をかけて精一杯働くとか、国民第一主義を貫くとか、耳障りの良い事を言ってはいても、議員になった途端に豹変するようです。このブログを以前から読んでいただいている方には、もうお判りと思います。今の選挙制度と議員の特権がこのような議員を生み出す元凶なのです。しかし、議員に関わることは、議員自身が決めると言った法律がある以上、なかなか改めることは難しいのです。文通費の改革ですら、民衆のほとんどが望んでいようが、既得権益にしがみつく議員(その恩恵を受け続けて来たベテラン議員が特に障壁となっているようです)が多数いれば、変わる訳はありません。
我々が考えなければならないのは、議員の中の’心ある’人達を応援することと、選挙のときは少しでも多く’心ある’候補者が当選するように投票することです。そのための情報が少な過ぎるのです。笑顔のポスターや、名前連呼の街宣活動などでは何も判らないのです。こんな無駄なことにお金をかけることを良しとしている政府、自治体もどうなのでしょうか。そんなことでお金が足りないと言って、選挙活動費を出せという政党やその幹部、さらに議員自身も金集めに奔走することになるのですが、この流れを止めなければと思うひとが出て欲しいと思います。そのようなことを訴える候補者が出て来て欲しいのです。