前回のブログで、タイの大量殺人事件について述べましたが、このような理不尽な犯罪も、今、ウクライナの住民や、動員令で戦地に送り込まれる一般のロシア人達が、経験する悪夢も同じような悲劇ではないのでしょうか。
ほとんどの民衆はウクライナであれロシアであれ、こつこつと働いて生きています。その中でそれぞれなりの幸せ探しをしているのだと思います。それが、突然、戦争の真っ只中に放り込まれて、無残に命を落とすことになってしまいます。まるで、突然、大量殺戮者から銃で撃たれたように人生を奪われてしまうのです。平和なときの殺戮者は法律で裁かれますが、戦争では、その命令を下し、多くの人達の命を奪うことを国の為と称する指導者は支持者からは英雄視されるのです。
冷静に考えますと、戦争を始めるということは、大量に人を殺戮せよ、町を破壊せよと命令していることなのです。命令されて最前線に派遣された兵士達も相手の抵抗で命を落とすことのリスクを受けるのです。どちらも、善良な国民が多く命を落としていると思います。何故に真面目に善良に生きて来た人達がそのようなことになるのでしょうか。
戦争で命を奪われたひとにとって、タイの事件で命を奪われたひととどう違うのでしょうか。いくらたいそうな大義を振りかざしても、命のやりとりをする民衆にとっては、殺し合いでしかないのです。戦争を決めたものが、自分で命をかけて戦地に赴き、戦うべきです。それも一般民衆ではなく、相手の大将と。ほとんどの民衆にとって、戦争などしたくはないのですから、本当に戦争をしたいと思う人達だけで、本当に命をかけられるのであれば、民衆のいない場所で、堂々と戦争をしたらいいのです。
戦争を始めることを決めたひと自身が最前線で武器を持って戦うのであれば、まだその信念は真だと思えますが、安全な場所から言いたい事ばかり言っているようでは、そのひとの言っていることを信じることは出来ません。