旧統一教会の勅使河原改革推進本部長の会見が度々行われています。それらを見る度に大きな違和感を感じています。

 以前、「152. ひとの心を救うのが宗教」で私の宗教観を述べさせていただきましたが、その考え方に照らせば、彼らの行動、発言が宗教家のものとは思えません。会見は、形式的な謝罪は少しはありますが、ほとんど自分達の正当性を主張するばかりです。こんな言い訳ばかりの会見を聞いて、信者の方達はどのように感じているのでしょうか。もしかしたら、冷静に、客観的に聞けないような洗脳状態なのでしょうか。

 先に示しましたブログで、宗教とはひとの心を救うものであると私は考えていると述べました。大部分の人間は非常に弱い存在です。ずるい部分もありますし、基本、自己本位でもあります。そのような存在ですので、過ちを犯すこともあるでしょう。また、外圧によっても悲劇のどん底に落ちることもありますので、生きて行くのが非常に辛く、苦しく、悲しいことで悩むことも多々あります。そのようなときにある人は救いを宗教に求めるのだと思います。真の宗教はそのような不幸な人を受け入れて、その人の心を救うものであると思います。

 歴史的に数々の宗教、宗教家が出ていますが、私の感じていますのは、多くの人を救ってきたような宗教は信者に対して、非常に寛大に、寛容に接して、その人の非や誤りを非難するようなことは無く、そのような行為を起こした心をどのようにすれば救うことが出来るかを説くことが教義で、それにはいろいろな物がありますが、決して恐怖に訴えたり、脅したりするようなことはしないと思います。こうしなければ地獄に落ちるなどと人を脅すようなことをするのは、新興宗教でカルト的な教団が大半だと思います。

 今回、会見での勅使河原本部長の態度を見ていましたが、すぐに怒りの表情を表し、都合の悪い質問には、声が上擦り、私の個人的見解ではありますが、多くの信者を導く教団幹部の心の広さ、優しさがあまり感じられませんでした。私も含め普通の凡人が示す態度です。私が尊敬できる宗教人は、どのような事にも動揺せず、我々庶民を包み込み、安心や安らぎを与えてくれる人で、どんな指摘にも決してムキになって、自己弁護、教団の弁護に終始するようなことはありません。

 旧統一教会の幹部の方達が大切なのは教団そのもので、ひとりひとりの信者ではないのではとついつい感じてしまいます。