このブログのテーマである「幸せ」については、決して一人や特定の人達だけではなれないものであることをいろいろと訴えて来ました。

 もう一度整理しますと、幸せの必要条件は、真面目に働けば食べるに困らない富が得られ、戦争のような個人の力ではどうにもならない理不尽な環境ではないこと、自分がやりがいを感じる仕事に出会うこと、自分が充実感を得られる時を過ごすことが出来るひと、目標、趣味などと出会うことです。

 仕事や生き甲斐を見つけるということは、個々人が周囲や他者に惑わされず、自分の心と対話しながら、考えていると出会うことが出来る、個人の努力の問題です。

 一方、この中で、戦争というものは、突き詰めれば、個人、団体が、自分の欲望を叶える為に、他人を犠牲にしてでもという考えに至ったときに起こります。その中で多いのは、富、権力の奪い合いを武力、暴力で成し遂げようとすることで起こるのです。もっとも基本的なことは食べて行く為に食料を奪い合うことですが、それも含め富、権力を特権階級と思われる人が独占することにより、大きな軋轢が生じ、争いが起こるのです。

 一時的には、このような争いに勝利すると、権力を手中にすることが出来ますが、富が分配されない多くの庶民が飢えたり、虐げられたりして社会に不幸が蔓延します。反対に特権階級は幸せかと言うと、一時的にはまやかしの幸せかもしれませんが、いつなんどき、自分を追い落とすものが出るかと言った不安に苛まれ、結局、それに対抗する為に争いを起こし、多くの人達を不幸にし、場合によっては、自分自身も命を失ったり、権力の座から引きずり降ろされたりします。つまり、権力や富を独占する一部の特権階級層が真に幸せかと言ったらそうではないのです。

 私が言いたいことは、大部分のひとがある程度幸せにならないと、永続的な幸せは無いということなのです。みんなで力を合わせて、助け合って、幸せになりましょうと言うことなのです。この真理を理解できるか、出来ないかで、単なる利己主義を通すのか、他人の為のことも考えられる利他的になるかが分かれるのです。利他的と言って、自分をすべて犠牲にしてでも、他者を利するということではありません。お互い様という関係になって欲しいのです。

 今の世界、社会は利己主義が渦巻いています。ウクライナで戦争があっても、アフリカで飢餓があっても、旧統一教会の被害を受けるひとがいても、平和な(真実は非常に脆いものですが)街、家で金も持っているから自分や家族は幸せであると考えていると、いずれは社会の悪に蝕まれたり、世界大戦に巻き込まれて悲惨なことになってしまう可能性があるということを忘れないでください。

 そんなこと言われても、無力なものに何ができるのかと、結局、自分達だけ良ければいいと思うしかないと感じられている人もおられると思いますが、みんながそう思ってしまうと、今の理不尽な世界を変えることなど出来ません。強権的な独裁者であろうが、国民の大部分が異を唱えれば、好き勝手なことが出来なくなるのです。ひとりでも多くのひとが、利他的になれれば、自己主義が蔓延している世界を少しづつでも変えていけると信じています。

投稿者

弱虫語り部

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