世界的に見て、20世紀に縮小しつつあった貧富の格差がどんどん拡大して行っています。前近代の時代には、国を統治する王族や貴族、富を持つ商人など極一部の層が庶民との絶対的な格差を保有していましたが、民主主義、自由経済などの導入により、中流階級という準富裕層が拡大し、一般庶民の暮らしも底上げされて来ました。それが、経済の中心が資本主義となり、競争社会となり、資本家と従業員、勝者と敗者との関係性の中で、格差がまたぞろ拡大して来たのでした。

 私は本当の幸せは物質的な貧富の差だけで決まる訳ではないことを主張して来ています。但し、ある程度人間らしい生活を送ることが出来るようなお金は必要であることも述べて来ました。しかし、世界の貧困層は年々増えて行くようですし、それに反して、超富裕層も増加しています。このような行き過ぎた貧富の格差拡大が多くの人々から幸せになれる土壌を掻き乱し、荒廃させて行ったのです。

 一方、健康格差と言う言葉も目にするようになりました。これは貧富の格差とは関わらず、人間、若い時は、社会生活を営む上で、認知力、体力の個人差はあまり大きくは無いのですが、高齢者になりますと、いつまでも自立できる人とそうでは無く、寝たきりやそこまで行かなくとも介護が無いと生きていけない人との大きな差が表れて来ます。これを健康格差と言うそうです。街に出ますと、足元も覚束ないような高齢者が一生懸命杖をついたり、歩行補助車を押して歩いていたり、車椅子で介護者に押されて移動したりするのを見かけます。一方、同年代の高齢者でも、ひとりでしっかり歩いたりしている姿もあります。そのような高齢者は社会と関わり、スポーツもしたりと、レベルの違いはあれ、若い時からの延長戦上の生活を営んでおられるように見受けられます。中高年から高齢者層にかかるときに、それまでそれほどなかった差が急に拡がっていくのだそうです。やはり、出来れば、ある程度高齢になっても、自立出来るに越したことはありません。若い時では当たり前であった、自分の意志でいろいろな事を成し遂げられることは、人生の終盤において、自己肯定でき、充実した時間をどれだけ多く持てるかと言った意味で、幸福感を多く感じられるものと思います。もちろん、寝たきりであろうと、やる気があれば出来ることはあるとは思いますが、それには、かなりの精神的強さが必要で、介護してもらうと言う負い目も背負わなければならず、普通の人間ではなかなかやり遂げられないものであるのも事実です。

 このように貧富の格差、健康の格差を両睨みしてみますと、幸福になり易い条件は、平和な社会が大前提ですが、ある程度の富の保有と自立した老後を送れる健康の維持だと、しみじみ思えてきます。若い人達も、このような視点に立って、自分の生活、生き様を再点検し、将来を考えることも必要だと思います。私も含め多くのひとは、若いときは健康など当たり前でいつまでも続くような錯覚に陥っているようですから。

投稿者

弱虫語り部

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)