古来より、人間をどのように捉えたらよいか、色々な考え方が説かれていました。代表的なものは、性善説、性悪説でしょう。人間は元々正しい性根を持っているのだが、それが置かれた環境、状況などにより、悪い行動をとることがあるので、心の底まで詳らかに開放できれば改心できるとする性善説と、逆に、人間は生まれながらに悪の素養を持っているが、置かれた環境、状況によって、その悪の心を隠し、善の行動をとることが出来るが、根本は悪の本性が存在すると言う性悪説です。
私がこれまでの人生経験と人類の歴史、様々な先達の書かれた本を読み漁って、結論としていますのは、まず、悪とは自分以外の人を害すること、善とは自分以外の人を救うことと考えますと、人間は、自分のことより他人を利することを優先できるAEタイプと、自分の欲望を達成する為には他人を犠牲に出来るDEタイプと、根底は善を行うことを良しと思うが、他人に見られていなければ、自分の欲望を優先してしまうWEタイプの三種類に分類できるとする考え方です。
もちろん、自分以外の人の心に潜り込んだことがあるわけではありませんので、多くの人達のとった行動、言動からそう推察している訳ですので、絶対正しいとは考えていませんが、そのように分類分けして、他人の行動を理解すれば、辻褄が合うことがほとんどだったので、自分個人としてはその考え方を信じている訳です。自分自身はWEタイプであると、もちろん自分の本心も把握出来ていますので確信を持っています。また、自分が推察してAEタイプ、DEタイプだと思う人とはそれほど多く接して来ていませんので、人類の大部分はWEタイプだと判断しています。そうだからと言って、人間全部がWEタイプだとしてしまうと、これまでの人間の行動を理解できないことになってしまうので、きっとAEタイプとDEタイプは存在していると考えているのです。
現在、毎日のように数多くの犯罪が報道されています。フィリピンから特殊詐欺事件や連続強盗事件の首謀者とみなされている数人が日本に送られたニュースも流されています。想定される被害額は60億円にものぼると言われていますし、強盗事件では、死亡者も出ています。今回はこの事件に注目が集まっていますが、連日、悪質な事件が続いています。
このような凶悪事件を見て考えますのは、容疑者や犯罪者の人権の問題です。確かに、彼らも人間ですので、人権があるのは当然ですが、一方、被害者やその家族から見れば、被害者は人権など守られること無く、殺傷されたり、今後の人生が崩壊するような被害を受けたりしているのです。その人達から見れば、被害者の人権を侵害した犯人に何故に人権などあるのかと言いたくなるのも痛切に理解できます。
容疑者の人権については、例えば、戦前の日本までは、人権尊重などありませんでした。それにより、容疑者が拷問にかけられて、命を落とすこともありました。このようなことで、一番問題なのは冤罪の可能性があるからです。もし無実であれば、それこそ人権を尊重しなければならないのです。また、国家権力が故意に無実の人に罪を押し付け、場合によっては、取り調べとして、暴力で脅したり、口封じをすることも出来たのです。このような過去の経緯から、容疑者であっても、基本的な人権が保証されるべきだとなって来たのです。さらに、例え犯罪者であっても、更生の道を断つ訳にはいけないという性善説的な考えにも人権尊重が反映されています。
法は、人間を一律に一個の個人として見ています。実は、DEタイプの人は更生などあり得ないのではないかと思いますが、残念ながら、誰がDEタイプであるのかを、公式に判断するのは、今の科学技術では出来ません。よって、すべての容疑者、犯罪者の人権が尊重されるべきだとなっているのだとも言えます。
もし、今の警察制度、司法制度が全て間違わないような神的なシステムであるのなら、被害者の人権を無視したような犯罪を行った人間の人権を尊重する必要は無いとも思えるのですが、現実は難しいのです。本当に悩ましい問題なのです。