東日本大震災で福島第一原発から放射線物質が漏れだした事故からまもなく12年が経過します。しかし、未だに放射性物質に汚染された農作物、草木などが、最終処分場が決まらない為に、指定廃棄物として東北、関東の仮置き場に、40万トン以上保管されたままなのです。原子力の危険性はその事故後の甚大な被害だけではなく、気の遠くなるような長い時間に渡り人々へ禍根を残すのです。処理水の希釈放水の問題も、周辺国も巻き込み争いの種になっています。
確かに、この事故までは、日本での原子力発電は何となく安全神話のようなものがあって、チェルノブイリ原発の事故は遠い外国のニュースとしか捉えていない人が多かったように思います。福島原発事故までは小規模な事故はあっても一般市民に被害が及ぶことはなかったですし、東日本大震災のような激震でも、原発本体の耐震性に問題は無かったと言えると思います。
しかし、原子炉が地震で破壊されなかったとしても、炉内を冷却出来なければ、メルトダウンが起こり、その結果、原子炉施設外へ核物質が漏出し、深刻な放射能汚染が起きたのです。
この事故の最大の問題は、津波による施設の水没が起因する電源設備の停止については技術者らからその危険性について警鐘が為されていたにも関わらず、東京電力の経営陣は想定される津波の大きさでは施設の安全性は確保出来ているとして、対応を怠ったことです。まさしく人災だと思います。
原子力こそ、リスクマネージメントに最大限人類の叡智を投入し、厳密に実行しなければならない技術であり、リスクの大きさに比例して、安全係数を人智の及ぶ想定範囲より数倍大きく見積もるべきものだと思います。ビジネス的な判断であれば、コストに関わる事なので、そんな安全策は出来ないというのが、東京電力の経営者のような一般のビジネスでの判断ですが、原子力にそれは通用しないのです。もしそれだけの安全策にお金をかければペイしないのであれば、原子力発電の実力はその程度のものであると断念しなければならないと思います。このような判断を一企業の経営者に任せて来た政府、官僚も問題だと思います。無責任な人間達が寄ってたかって、多くの人々の生活を奪って行ったのです。
以前のブログでも述べましたように、人類は危険をはらんではいても人々の生活に多大な恩恵を与える技術を開発し、使って来ました。火の活用が最初の大きな進展でしたが、これについても、未だ完全にコントロール出来ているとは言えません。ましてや、原子力は、核兵器にも応用できてしまうある意味、もう人間の手に負えるものではないのかもしれません。賢者が支配する世界でないと、せっかくの技術も使いこなせそうにないのです。
本当のことを言いますと、私も迷っています。人類を信じていいのか。人間は驕ってしまうことが一番悪いのです。人間自身の弱さに目を逸らさずに向き合い、謙虚に強く生きていければいいのですが。それがみんなの幸福をもたらしてくれるのです。