先日、笑福亭笑瓶さんが亡くなられました。連日、テレビやネットや新聞、雑誌で、笑瓶さんを惜しむ各界の声や、過去のエピソードが多数報じられていました。個人的には、面白いおじさん程度の知識しかありませんでしたので、これほど多数の報道が為されたことに驚き、この方が多くの方から親しまれ、愛され、尊敬されていたのだと感じました。
それらの報道で、印象深かったのは、彼の誰に対しても飾らず、偉ぶらず、明るい性格でした。このような人が周りを元気にし、幸せの風を運んでくださっていたのだと想像しました。さらに、「噂の東京マガジン」でのいろいろな街の問題に対する真面目な言論なども見ていますと、表面的な温和さだけでは無く、きちんとした温かい目を持っておられたんだと感じてしまいました。
政治家や官僚と言った権力者の中には、お笑いの世界の人間を下に見ているひとも多くおられるように思っています。しかし、政治家等が人々に為して来たことに比べ、あらゆる事を笑いに変えようとするお笑い界の人々の方が、社会を幸せにしているのではと思います。
それは、お笑いの原点は、駄目な人間を題材にしても、他人を押しのけたり、傷つけたりすることより、寛容の精神を中心にしているからだと思います。人間の弱さ、間違い、ずるさなどこの世界の大多数であるWEタイプの人に見られる性質に対して、少々のことは笑い飛ばしてしまう鷹揚さがあるのです。人間同士、相手の欠点、ミスを指摘し合い、争いにしてしまう政治家の世界とは大違いです。それらがエスカレートした場合には自分達の正当性を主張する為に、戦争を起こしたりするのが政治家です。逆に笑いの世界は、喧嘩をしても最後は許し合い、笑い合うことで、まあまあ仲良くやりましょうよとなるのです。
そういう笑いの世界でもそのお笑いの根本精神に卓越されていたのが、笑瓶さんだったのでしょう。勝手な想像ですが、ウクライナのコメディアン出身のゼレンスキー大統領のように、笑瓶さんが日本の総理大臣になっていたら、どんな国になっていたか非常に興味が湧きます。そんなこと彼には無理だと言われると思いますが、優秀な腹心と忠実な能吏がいれば、国民への優しい目線で国民の為の最終判断を決断してもらえるのではないかと思ってしまいます。
真面目さを強調して偉そうにしている人こそ、本心は他人を犠牲にしてでも自分の欲望を成し遂げることを優先する人が多いのです。そういう人は自分より偉い人間には頭が上がらないで、人によって態度を変える人間が多いのです。それより、誰にも偉ぶることがなく、平等に接することが出来るひとの周りには、お互い助け合い、尊重し合う、幸せな環境が出来上がるのです。