コロナ禍の下で、今年も大学入学共通テストが実施されました。その初日に、東大前で、高校2年の男子生徒が、通行人3人に切りつける事件が起こりました。犯人は名古屋市内の進学校に通っていて、東大医学部志望でしたが、成績がふるわず悲観して自暴自棄の犯行だったようです。何がそこまでと普通の感情があればそのような行動に出ることはなかったのでしょうが、まことに哀れでもあります。多分、親や周りのものから、東大に入れば、医者になれば、順風満帆の人生が送れるとさんざ吹き込まれていたのでしょう。ある程度人生経験のあるひとなら、東大に入っても、大学生活に挫折したひと、卒業できないひと、無事卒業して一流企業に入社してもうだつが上がらないひと、高級官僚になっても犯罪を起こして刑務所に入ったひとなど大勢いることを知っています。東大合格が輝かしい人生への切符を獲得したなどというのは妄想であることを知っています。同じように医者になることもそうです。それなのに、東大合格が危うくなったら、人生を悲観するなんて、どれだけ哀れなことでしょう。本人は人生経験は少ないのですから、そのようなことを吹き込んだ親などが、どんな人生を歩んで来たのかということも大いに不思議です。例え親兄弟がそのような考えの持ち主だとしても、学校という教育の場で、きちんとそのような考えが間違いであるということを教えていればこんな生徒を生むことはなかったでしょう。悲しい現実ですが、未だに受験第一主義がまかり通っています。高校や予備校は、有名大学への進学実績を謳い文句としていますし、教育熱心と言われている親も我が子に幼稚園、小学高から、英才教育をして有名大学、医者、大企業、官僚への道を目指すように努めています。
新ハルモニア主義では、このような価値観を変えたい、そのような環境を生む社会を変えたいというのがひとつの希望です。ひとの幸せは、千差万別、多くの種類が存在します。それなのに、有名大学合格が、唯一の切符のように決めつける考え方には憤りを感じます。自分の人生をかける仕事というものは、今や40年50年以上を続けるものです。ということは、自分の適性にあった職業につくことが最大の喜びであり、そうでなければ、例え、華々しい仕事でも、安定な仕事でも、高収入の仕事であっても、長期間の苦痛を我慢し、人生の大部分の時間を浪費することとなってしまいます。このような基本的な考え方を、小学生のときから、教えていくことが必要です。自分の就く仕事は、自分の適性で決めることです。このような大事なことを教えないで、今の教育は受験勉強に偏重しています。その根っこにあるのは、大学の入学試験、司法試験、公務員試験など重要な資格は、受験勉強の延長線上にあるからです。特に、官僚、医師、法律家などが受験的詰込み勉強で選別されることの弊害は大きいのです。これらの職業は多くのひとに影響する特別な権限を保有しています。それだからこそ、自己を厳しく律することができるような倫理観が必要とされるのですが、そのような倫理観を持ったひとがその資格、職業につけるような試験となっているのでしょうか。確かに、受験勉強で習得することがらは必要な知識だと思いますが、知識の詰め込みで合格できるようであれば、受験テクニックを駆使し手段を選ばずひとを蹴落としてでも這い上がるような利己主義タイプのひとも多数混在していることと思います。本音レベルでは己の権力欲、名誉欲、金銭欲を満たすことが第一である官僚、医師、法律家などが生まれるのは、現在のシステムでは致し方のないことなのです。しかし、自分の絶望感から他人を傷つけるような今回の事件の犯人が、もし、成績は落ちなくて順調に東大に合格し、医者になっていたらと思うと恐ろしいとは思いませんか。現実にも同じようなモンスターが化けの皮をはがされずに権威をふるっているかもしれません。
今の教育、様々な選別試験は、このような危険性を多数はらんでいるのです。そこで、新ハルモニア主義が唱えているのは、教育の改革であり、その延長線上にある職業の真の意味での平等なのです。すべての職業は、社会を構成するために必要なのですから、そのことを尊重し、どんな職業でも、真面目に勤めれば、ある程度の豊かさを保障され、尊敬されるものであるということを実現するような教育、社会システムに変革すべきだと言うことです。そうなれば、ひとは、自分の個性、特性にあった職業を選択し、やりがいの感じる仕事で満足な人生を送ることができるようになります。また、その道筋には多くの試練も待ち受けているでしょうが、好きなこと、向いていることであれば、少々の挫折で悲観して、自暴自棄に走るようなことはしないでしょう。
新ハルモニア主義の教育改革については、投稿済みの「教育の改革例」などをご参照ください。