受験シーズンに、新型コロナウィルスオミクロン株の爆増が重なり、受験生にとって非常に厳しい状況が続いています。前回、このブログで触れました東大前殺傷事件のような悲惨な出来事も重なり、益々精神的にも暗い状態ではないでしょうか。このようなときに自分自身の精神を平穏に維持するには、幸福への根本的な考え方を知っているか、そうでないかによって大きく違いがあります。そして、目の前にある受験は重要なイベントのひとつではありますが、それで人生がすべて決まる訳ではありません。失敗しても、その後、幸福な人生を歩まれているひとも多くおられると思います。
今回は、幸福な人生への進路を考えたいと思います。
まず、ひとはひとりひとり異なった個性があります。考え方、趣味嗜好、得意、不得意、長所、短所も違います。だから、ひとの幸福感というものは、千差万別なものなのです。この進路を進めば、幸せな人生を歩めると言われることはよくありますが、決してそのようなことを鵜呑みにしてはいけません。もちろん、そう考えているひとにとっては真実だと言うこともあると思いますが、それが別のひとに当てはまるかは分かりませんというか、当てはまらないことの方が多いと言っても過言ではないと思います。例え親が求めているとしても、その子供は別人格である以上、違う個性、幸福感を持っていることも不思議ではありません。また、幸福というものは、今回の受験に合格しなければ次は無いというように限定されているものでもありません。ことわざでいうと、「人間至る所青山あり」というのが真実だと思います。答えはひとつではなく、その答えにたどり着けなくとも、別の答えがあるのです。つまり、幸福とは、自分自身の気持ちで感じるものなのです。そして、それだから、一人一人違ったものであるのが普通なのです。しかし、現実には、勉強ができ、偏差値の高い学校に入り、一流と言われる会社に入ったり、医者や高級官僚、弁護士や公認会計士、税理士など一部の花形?と言われる職業に就くことが人生の成功だと一般的に言われています。しかし、そういう職業に就いたとしても、その仕事に適性がなければ、不幸な毎日を送ることになります。逆にそのような仕事を目指して失敗しても、その後別の仕事に就いてそれが天職であれば、その方が幸せな人生を送ることができるのです。だから、我々が求める必要があるものは、自分の適性にあった仕事なのです。今の教育は、勉強が出来るということに偏り過ぎています。勉強は個人の特性を現すひとつの指標ではありますが、決してすべてではありません。真に社会が求めている人材は、単に勉強が出来るだけのひとではなく、多くのひとが助け合って生きていけるように、倫理観や真面目さや他人の痛みを理解できる心のひろさも併せ持っていることが重要です。また、偏差値がそれほど高くなくとも、体力がある、手先が器用、粘り強い、正確性がある、コミュニケーション能力が高い、などなど様々な特性を持っていることで社会に役に立つ仕事が出来るひとになれるのです。
不安な気持ちの受験生やその周辺の人達も、あまり気負うことなく、受験もひとつの通過点として、結果より、そのプロセス、経験こそが将来に役に立つということを理解して、立ち向かってください。
私が考える教育とは、この道筋を理解することが初めの一歩なのです。理想を言わせていただくと、現在の教育現場では難しいかもしれませんが、次に、社会にある様々な職業を知ることが必要です。そして、その中から、自分の適性にあった天職を探せるような知識、経験を積み重ねていくことです。それだから、教育現場ではこのようなことを実践する内容が必要なのです。そして並行して、職業に貴賤は無いこと、どんな仕事でも、正当に社会を構成し、支えているものであればそれは必要だということ、また社会に貢献するという点で、すべての仕事は尊重され、それに真面目に取り組めば、ある程度の豊かさが保障されるという社会システムが必要なのです。今のように、一部の職業に富が偏在するのではなく、ある程度富を配分するという社会システムが必要なのです。
このようなシステムにより、ひとりひとりは将来を安心して、自分の適性にあった仕事を探し、就き、その中で充実した人生を送っていくことができると思います。