平日の少し遅い朝に街歩きをしていますと、高齢者の多さを如実に感じます。しかし、同じ高齢者と言っても、動作が普通の人もいれば、杖をついて足を引きずっている人、腰や首が曲がって歩き難そうにしている人、歩行器や車椅子を使っている人と千差万別です。若年から中年の世代では動作にあまり大きな個人差を感じなかったのですが、高齢者間の場合は大きな差が開いていると思います。そういういろいろな状態の高齢者が街に多く出ている訳ですので、このようなときの雑踏での人の流れは、通勤・通学時間帯の人の流れが人が多いにも関わらず結構スムーズに流れているのに比べ、あまりスムーズではありません。見ていますと、ゆったり歩いている高齢者を押しのけて先に進んでいく若者がいると思えば、階段で足の悪い高齢者をサポートする若者もいます。

 この差はどこから生まれるのでしょうか。もちろん、それぞれの事情があって、かなり急ぐ必要があるからと、一見、高齢者を押しのけて進もうと見えるのかもしれませんが、根本的には、自分の事情を最優先にするか、弱者の事情に心を配るかの差だと思います。

 若者にとって、よたよたと進む高齢者は邪魔でしかありませんが、その高齢者も好き好んでそのような行動をとっている訳ではないこと、さらにその人の立場に立って考えられるかが若者の行動を決めることになるのでしょう。他人の立場になって考えられるか考えられないか、想像力が有るか無いかが分岐点になると思います。

 この世界から争いを無くすには、他人に寄り添って自分の行動を律することだと思います。争いは憎しみや傷つけ合い、殺し合いにつながります。そして、それが多くの人の幸せを、いずれは自分自身や家族、愛する人の幸せをも奪うのです。それだからこそ、自分が幸せに暮らしていきたいと思うのであれば、他人のことも尊重すると言う考え方をしなくてはなりません。他人を尊重する為には、他人がどういう状況におかれ、どのように考えているかを想像しなければなりません。お互いにそのような想像力を働かした上で、話し合えば、どんなことでも話し合いで解決出来ると思っています。逆に、一方的に自分の考えを主張しあっては埒があかないので、結局は暴力に頼ることになってしまうのです。

 動物から進化して来て、何が変わったのかと言えば、欲望が際限なくなることと、それを制御する為に、人間には想像力が発達したのだと思います。自分の欲望を実現させた結果、どのような影響を周りに及ぼすかを想像出来るにようになって来たのだと思います。しかし残念ながら、すべての人間がそう考えられるようにはなっていません。

 現実の世界はどうでしょうか。我々の暮らしを守るべき政治家や役人も、あまり歩み寄りを見せません。それを見せることが、自分が弱く見られるとでも思っているようです。まるで、反社の人間のこだわりと大して変わりません。国同士の場合も、面子や変なプライドの通し合いのようなまるで大人げないやり取りが繰り返されています。本来、人の上に立ち、人を導き、守る立場の人間は、自分自身の見栄や面子やプライドなんかより、国民、市民のことを大切にするべきなのですが、残念ながらその程度の見識しか持ち合わせていないような人がほとんど、この世界、国のトップに君臨しているのが判ります。