前回のブログで、他人の立場、状況、考え方などに対する想像力が重要であると述べました。特に、政治家や高級官僚などと言った人達でも想像力の欠乏している人が結構存在することを示しました。彼らの多くは、有名大学を卒業していて、受験エリートと言われる人達です。このことから、現在の高等教育は想像力を育むようなものではないと思われます。
それではどのようにすれば、他人への配慮に関する想像力を養うことが出来るのでしょうか。受験エリートは、目先の問題や課題に対応することには長けています。つまり短時間で答えを導き出せるような答えがはっきりした問題をきちんと解く能力は鍛えられています。これは、受験問題の多くはそのようなタイプの問題だから、それに対応する為の受験勉強に力を入れているからです。一方、現実の社会生活に起こる問題は、そんな単純な問題はほとんどありません。それを解決するには、幅広い知識と論理的思考力が要求されます。つまり合目的に試験問題を解くような能力とは次元は違うのです。そもそも人間が自身で経験したり、体験したり出来る量は非常に少ないので、知識を広げるには、多くの先達が経験したり、体験したりして、編み出した考え方に広く触れることが必要です。そう言う観点で、幅広い分野で多くの書物に触れることが必要なのです。次に論理的思考力についてですが、単純に数学の論理問題とは違います。色々な事象が何故に起こっているのか、突き詰めていく能力が重要です。目の前に起こっている事象を表層的に捉えるだけでは、そのものの本質に至ることは出来ません。これまでに培った多くの知識や経験を動員して、推理、推察する思考が求められるのです。
大学の定期試験では、そのようなタイプの問題を解くことを要求されることもありますが、残念ながら、その問題を解く為に必要とされる知識の範囲が限定的で、それほど難解なものではないケースがほとんどです。ある狭い範囲の専門性を高める為の問題でしかない場合が多いのです。それと言うのも、大学では専攻する専門科目に限って高めることが目的だからです。その分野で、大学教授などの専門家を目指すのであれば、それでもいいとは思いますが、ほとんどの学生は大学教諭以外の職業につき、一部の企業研究者を除き、そこまでの狭い専門性より、広い知識と論理的思考力を要求される場合がほとんどだと思います。つまり、今の大学では、御座なりの教養と社会に必要でない狭い専門性を身につけて卒業することになってしまいます。
現代の日本の教育シテスムは受験勉強と言う答えのはっきりした問題を多くの暗記と問題の演習を数多くこなすことで成果が上がる勉学と、狭い教養と狭い専門性しか身につけてこなかった受験エリートを多数輩出しているのです。
このように訓練されて来たことにより、目の前の課題を卒なくこなす能吏である、官僚や企業幹部が社会の重要なポストを占めるに至ったのです。そのことにより、例えば、故安倍元首相の森友問題のときに、故安倍氏を守る為には、公文書改ざんまで指示するような高級官僚が生まれてしまうのです。彼らは、自身の人事権を握る政治家達の考えや思想、行動などの良否も判断出来ずに、与えられた目の前の課題をこなすことに最善を尽くす人間となってしまって、民主主義の民を主とすると言う精神などには考えも及ばなくなってしまっているのでした。彼らの能力では、表層的、短絡的にしか思考できずに、与えられた個別の目先の課題をこなすことに窮して、幅広く、先を見通した想像力を働かすことなど出来ないのです。
このような想像力の欠乏により、多くの国民の生活、安全を守ると言う真の職務に照らして物事を考えられないのでしょう。