前回のブログで、受験勉強主体の教育について警鐘を鳴らしました。何故そのような教育システムになってしまったのでしょうか。

 日本の歴史では、江戸時代の藩校と言う、藩が家中の子弟の育成の目的で設立された教育機関が知られています。庶民には、寺子屋と言うものも良く知られていますね。本格的に国を挙げて教育制度が制定されたのは明治時代で、小学校から大学に至る教育制度が確立しました。この形が、その後、太平洋戦争終戦後に米国により内容は見直されましたが、今の教育システムの土台となっています。

 元々の狙いは欧米の知的水準に追いつくこととして、義務教育で国民全体幅広く読み書き等の基礎的なレベルアップを図り、高等教育で国の維持、繁栄に必要な人材を輩出することでした。高等教育は上流階級の子弟を中心に知能の高い子弟の発掘と育成を狙ったものでした。戦後は全国民に門戸が開かれたのですが、基本的に現体制に活用出来る人材を育成する観点は引き継がれて行きました。それが、権力層の指示に従順に従い、要領よく課題をこなす能吏、高級官僚を育成するシステムだったのです。つまり、東京大学を頂点とする体系が出来上がったのです。要求される能力は、与えられた課題を効率的に解決することですので、現在のような限定科目での試験の点数を競う受験主体の教育体系となっているのです。

 権力層にとって最も理想的な人間像は、権力層の考えや思想を深く疑うこと無く、その権力者の多彩な指示命令に従い、多くの課題を要領良く達成する秀才なのです。そう言う観点で見れば、高級官僚の行動をよく理解できると思います。

 民主主義の本来の目的は、出来るだけ多くの民衆が安全で豊かな生活が出来るように、民の意思を集約して、国としての政策を立案、実行し、国を守り、発展させていくことなのです。権力層の既得権益を維持する為に国を維持、発展させることではないのです。

 民主主義の理念を土台に、全国民に公平、公正な機会を与え、国民自身の為に能力を発揮する人材を育成する教育システムに改革しないといけないのです。

投稿者

弱虫語り部

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA


日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)