静岡県の海岸で、生後間もない赤ちゃんの遺体が見つかり、死体遺棄などの疑いで若い男女二人が逮捕されました。このような赤ちゃんの遺棄やそれこそ、出産後すぐに捨てて死なすような事件、一歳を満たない乳児を虐待して殺す事件など、これまで多くの小さい命が消える事件が頻繁に報道されています。
政府は、少子化を大問題として対策を大々的に講じるとしていますが、このような事件が何故発生するのか、家畜のように人間の数を増やすことに囚われるのではなく、人間は子孫を増やすことに対して、どう考えているのか、その考えの背景をもっと深堀りすべきだと思います。
自分がこの世に生を得て、成長していく中で、何を求めて生きていくのかを突き詰めて考えるとどうでしょうか。もし、生きていく過程で幸せを感じることがあれば、そのような経験を自分の子供に限らず、次世代の人々にも味わってもらいたいと思うのが、子孫を増やす原点のような気がします。戦前までは、生まれて成長し大人になれば、国家や家の為に子孫を作り、国や家に奉公するような人材を作ることが当たり前の社会でした。その為、大多数の人は子供を増やすことは人間の義務であると言う価値観に縛られていたのです。
戦争に負け、軍国主義から自由主義社会へと移行していく中で、人生の目的、結婚観、子供を作る目的も大きく変化して来ました。それまでは、深く考えないでも社会常識として、生き方を規定されていたのが、個人の自由がいろいろな面で認められて、そのような社会に慣れていない大人が子供を授かったときに、その子供にどのように生きていくかを指し示すことは非常に難しかったと思いますし、出来ない親が多かったと思います。その親達に忍び寄って来たのが、お金至上主義、つまり物質的に豊かな暮らしを目的とする生き方でした。それで、あくせく働き、日本経済を立ち直らせ、さらに成長させることに一丸となって邁進したのです。子供の教育としては、勉強の成績を上げ、良い学校に入り、良い会社に入り、良い職業に就くことが重要だと、受験戦争とも言われた道を子供に歩ませる親が増えていったのです。
私が新ハルモニア主義で訴えて来たのは、人間の幸せは千差万別であり、既定路線など存在しないという事、つまりお金や地位だけでは人間は幸せになれないということです。そして、個々人がそれぞれの人生を自分の生きがい、充実感を得ることを純粋に求めて行くことが一番重要であり、且つ、そのような環境を作る為に、政治、教育、経済の仕組みを改革していくことが必要であると主張しているのです。また、誰もがそのような幸せを個々に追い求めて行く為には、他人も尊重するべく協調関係を築いていかなければならない、そのベースが、平和な世界ですし、世界の富を独占することなど無く、譲り合っていく共生の社会なのです。
このような考え方をベースに、社会の問題を読み解くと、本質的な答えが見えて来るのです。少子化問題にしても、ひとりひとりをどう幸せにするかという基本的な議論無くして、論じられるものではありません。