同性婚が認められないことに対する訴訟五件の一審判決が出揃いました。違憲が二件、違憲状態が二件、合憲が一件と判断は分かれましたがすべて国への賠償請求は認められませんでした。

 この問題は、いろいろな差別問題、少子化問題とも関係しています。これまで人類は多数派である異性婚をノーマルと定め、その考えをベースに社会的なルールを築いて来ました。また、生物学的には、異性間での交渉により子孫が生まれていくことを重く捉えられていました。つまり、多数派からの少数派の差別、子孫繁栄という大義名分に囚われて来たのです。

 私が考える幸福論から見ますと、他人の幸せを認め、踏み躙らない限り、全ての人はひとりひとり、幸福に人生を送る権利があるのが基本ルールです。それに照らし合わせて考えますと、少数派であろうが、その幸せを奪うことは、なにびとなりともやってはいけないのです。社会全体が個々の幸せを守ること、個々の生活を守ることを目指して、共に助け合って生きていかなければならないのです。その基本的考え方の上に、子供を作る権利もありますし、子供を作らない権利もあるのです。少子化と言う問題も、個々が選んだ選択が優先されるべきで、子供を作らなければならないとか、作る可能性の無い同性婚はけしからんなどと言うのは、もともと一部の人のエゴイズムでしかないのです。

 ときどき書いていますが、少子化は国家の人口を増やしたい政治家や資本家が、一般民衆から出来るだけ多く搾取したいと考えることから問題としているのです。自然はその生態系を維持するように生物各種の数をコントロールして来ました。人間が初めてそのコントロールを崩してしまったのですが、それは科学技術の発展ということに支えられて来た分、問題はなかったのかもしれません。しかし、科学技術には大きな問題がありました。ひとつは科学技術が環境や生態系を破壊するような進歩を遂げて来たこと、もうひとつは科学技術の進歩のスピードより、人口増加のスピードが勝ってきたことです。しかも、比較的裕福な地域では、人口が減少し、貧困が拡がっている地域では人口が増加しているのです。

 まず必要なのは、地球全体を眺めた方策が必要なのです。富、食料、エネルギーなどの平準化です、地球全体から見れば、少子化対策など必要無いのです。個々人がある程度の生活を出来るようになれば、出生率も落ち着いていくでしょう。

 そのような世界では、同性婚であろうが、結婚するのも、子供を作るのも、すべて個々人の選択に任せられるのです。同性婚や子供を作らない人を攻撃している人達の大義名分など無に等しいものなのです。