ロシアにおけるワグネルの乱は収束したようですが、一連の騒動の中で、ワグネルの創設者プリコジン氏が、興味深いことを述べていました。それは、ロシアのウクライナ侵攻の大義は間違っていたとのことでした。私の推測ですが、そのことは、プーチン大統領の側近や官僚幹部のエリート層と言われる人達もほとんどが認識していることなのだと思います。ウクライナへの侵攻を決定する閣議で、ひとりの幹部が、プーチン大統領に異論を唱えたとき、プーチン大統領は、脅しとしか思えないような威圧的な言動で、彼に同意を強いた映像を何回か見ました。プーチン大統領は、自分の考えに逆らうことは決して許さない、本気で逆らうのであれば、その地位を略奪したり、場合によっては陰で命を奪うことさえやりかねないのではと感じられました。つまり、リーダーの過ちを正すことが出来ない構図が存在するのです。

 このような状態は、独裁者が統治する社会では、よく見られることなのです。パワハラの最たるものだと思います。私が独裁を常に非難するのは、独裁者の考え方がすべて正しいはずはないのに、それを指摘できなくて、その国にとって不幸な道に進んでしまうからなのです。

 日本社会の中でも、よく見られます。例えば、組織の独裁的なトップが、その組織を衰退に導くことなどよくあることなのです。かつての日大やボクシング協会、体操協会、一部の大企業など、独裁的な統治は繰り返されるものなのです。

 権力というものは麻薬のように人を溺れさせるのです。自分の言う通りに物事が決まり、進むことに酔いしれていくと、自分に異を唱えるものが許せなくなり、例え、その意見が正しくとも耳を貸すことなどなく、そのような者を排除してしまうのです。その結果、自分の周りには、何でも言う事を聞くイエスマンばかりになってしまうと、さらにその独裁統治が酷くなっていくのです。

 社会の中には、いろいろな考え方や能力を持った人達が多数存在しています。その社会を発展させる為には、それらの人達の知恵と能力を結集し、最善の答えを導かなければなりません。それにより、社会全体の総合力がマックスになるのです。真のリーダーたるものはそのことを認識し、社会を最善の方向に導かなければならないのです。

 独裁と言うリーダーシップは社会にとって、その社会に属する人達にとって、最も好ましい機会を奪ってしまうものなのです。そして、一番辛い目に合うのが一般民衆なのです。