今日は敬老の日です。高齢者を敬おうという趣旨の祝日ですね。

 誰だって年をとりいつかは高齢者になるのに、わざわざ祝日として祝おうとするのは何故でしょうか。似たような祝日に子供の日があります。いずれも、社会の中では、弱者として位置付けているからでしょうか。

 年齢を重ねる為には、長期間に渡り、健康で、働いて食い扶持を稼がないといけないのですが、それを達成したと言うことで敬いなさいと言うことでしょうか。それとも、若者や中年層から見れば、高齢者は鬱陶しい存在で、ついつい軽視してしまうので、少しはそうならないように、戒めを呼び起こす為の日としたいのでしょうか。

 わざわざこのような祝日を作らなければならないのは、高齢者は普段はあまり敬われていないからだと思います。それは、高齢者側にも問題があるのではないでしょうか。

 老いては子に従え、とあるように、とかく年齢を重ねても、権力、財力にしがみついて、過去の栄光を誇り、威張っている老人がこの世に多くのさばっているのに警鐘を鳴らす諺が存在するのも納得が行きます。社会を見渡しても、政治家、経営者、学者などで、そのような人物を多く見て来ました。老いというものは、個人差があるとは言え、体力、気力、知力が衰えて来るのは間違いありません、認知症のような病気に蝕まれることもあります。この事実に目を背けてはいけませんが、残念ながら、いつまでも権力、財力を誇っているような人は、自分だけはまだまだ知力は衰えていない、正しく判断出来ると誤解しているケースが多いのです。

 彼らは未だに大きな権力、財力を保持しているので、衰えていると言う事実を指摘出来る人が回りに存在しないことも、このような老人を助長させてしまうのです。この事実を正しく認識する為に必要なことは、自分以外の同じような立場の高齢者を客観的に見ることです。そうすれば、他人の駄目な所はよくわかります。そして、その事実を自分に投影させて、自分自身を客観視することなのです。

 人間は老害と陰口を叩かれる前に、後進に道を譲るべきだと思います。もちろん、多くの貴重な経験を役に立てることは必要なので、後進にアドバイスする立場にいることはいいと思います。しかし、いつまでも自分自身で決めるような立場にいてはいけないと思います。

 出来れば、若い世代から自発的に敬われるような高齢者になりたいですね。