藤井聡太棋士が将棋タイトル全てを獲得し、前人未到の八冠となりました。この偉業に各方面から賛辞が送られていました。その中の、藤井八冠の師匠である杉本昌隆八段の談話を聞いていますと、大リーグの大谷選手との共通点に納得しました。
それは、二人は、それぞれ将棋、野球に対して、常に少しでも上手くなることを目標にして、日々、そのことの為に鍛錬し努力していると言うことです。多くの人はあることに打ち込むとしても、少しでもお金を稼ぐ為や異性にもてる為などの目的をもって、日々努力しているケースが多いのですが、そう言う場合は、目的がある程度達成されてしまうと、厳しい鍛錬、練習を継続出来なくなり、そこで頭打ちとなってしまうそうです。それに対し、二人とも、将棋、野球のことが純粋に好きで、練習も含め、それに打ち込むこと自体、喜び、幸せとなっているのです。だから、その努力に没頭出来、終わりはないのです。
私は、人生を幸せにおくる為には、出来るだけ心の底から好きと思えることを見出し、出来れば、それで生計を立てられることだと思っています。藤井、大谷両氏のようなレベルでは好きだけではなれない天性の才能が必要ですが、我々凡人でも、それで食っていけるレベルであれば、そのことに取り組むことに充実感を感じ、その為に継続的に努力出来るのであれば、それでいいと思います。好きでもないのに金の為だけでは、いくら稼いでも、長い期間頑張ることは難しいと思いますし、重荷を背負って進む人生に疲弊していくことになるでしょう。
人生の目標は充実出来ることに打ち込むことだとすれば、人間は頑張れるものなのです。逆にそのことを見つけられずに、親や回りの人がこれがいいのだと勧めることに無理して取り組んでいくことでは、いずれ破綻するのです。じゃあ嫌な勉強を何故しないといけないかと思う人もおられるかもしれませんが、それは次のように考えるべきと思っています。つまり、勉強をすることをいい大学に入る為、いい会社に入る為との目的意識になるから嫌になるのです。本来は、自分の人生で目指す目標を見つけ、そこに進む為にある勉強が必要であれば、その目標の為に嫌な勉強も頑張るのです。目標も分からず、ただいい大学に入る為に勉強に頑張れでは、非常に辛いと思います。
もちろん、学校に通っている間に、自分のやりたいことがまだ見つからないこともあると思います。そういう場合は、それを見つける為に、大学に入っていろいろなことに見分を広めると言う目標でもいいのです。人生はいくらでもやり直すことが出来ます。もちろん早く目標を見つけることが出来ればそれに越したことはありませんが、自分のやりたい、充実感を得られる仕事を見つけることに期限はありません。見つけようとする意志を持ち続けることが重要であり、それさえ出来れば、必ず見つかるものだと思います。
私がもうひとつ主張しているのは、教育とは、個々の若者が人生の目標探し、天職探し、ひいては幸せ探しをサポートするものでなくてはならないと言うことです。今の教育は画一的過ぎて、まるで優秀な官僚や企業エリート、高度な専門職をピックアップする為のふるい分けのようになっています。それにこぼれた人達は、自分の力でなんとかしなさい、もしくは社会の底辺に落ちこぼれなさいと半ば捨てられているのも同然なのです。何故このようになっているのかは、今の教育の目的が国家権力、つまりはそのときの権力者達に必要な人材を育成することなのだからです。個々人が幸せになることを目的にはしていません。権力者は、そんな目的にしたら国が滅んでしまうと反論するでしょうが、違います。個々が自分に合った職業を見出すことが出来れば、社会に必要な機能が隅々まで、高度化、高生産化され、結局は最大の国力発揚につながるのです。