先日、米国シカゴ近郊で大家の男性が、六歳の住民の少年を刺殺したと言うニュースを見ました。少年はパレスチナ人でイスラム教徒の子供でした。犯人は、イスラエルとハマスの衝突を受けて、犯行を実行したようです。
このような犯罪は世界各国で起こって来ました。テロを起こしたハマスはパレスチナ人であり、イスラム教徒ではありますが、だからと言って、すべてのイスラム教徒のパレスチナ人に責任がある訳ではありません。穏健なパレスチナ人やイスラム教徒も沢山存在しているのが真実なのですが、テロと言う極悪非道な行為に興奮した人間の中では、ハマスとその他のパレスチナ人を同列扱いしてしまう短絡的な思考をする人がいるのも事実なのです。
このような画一的に人間を一括りにして見る傾向は、大なり小なり、我々の心にも存在しています。太平洋戦争のとき、鬼畜米英と言って、彼らがすべて悪魔であるような国全体の風潮がありました。戦争で受けた被害をすべて、その国の人間と言うだけで、憎しみ酷い目に合したりしていました。逆もそうです。今でも、中国や韓国に行きますと、日本人と言うだけで憎悪の対象として見られることがあります。韓国では、太平洋戦争前に統治されたときのことだけでは無く、それこそ数百年前に豊臣秀吉が朝鮮に攻め込み、酷いことを犯した昔の話も蒸し返す人がいます。あまりにも行き過ぎた偏見の行き着いた先は、ナチスドイツのユダヤ人虐殺です。
私は、国のような括り方は、権力者の統治の上に決められたもので、人々が望んで出来たものではないと思うのです。たまたまその地に生まれたからであって、悪行を働く人間達が集まって出来た訳ではありません。その責任があるとしたら、権力者とその取り巻きであって、庶民は絶大な力により従わざるを得ない状態になっていただけの場合がほとんどです。中には、同国人であろうとも、権力者に抵抗する勇気ある人達もいたと思います。
冷静になって考えれば、ひとつの国の中でも、悪い奴もいるだろうし、良い人もいるのが社会なのです。つまり、人間は、国や民族や人種や宗教や主義と言ったもので簡単に一括りに出来るものではありません。新ハルモニア主義では、国や民族、人種、宗教、主義といったものと関係なく、世界のどこにでも、ある割合で、他人の為に行動できるひと、自分の欲望の為には他人を害することも平気で出来るひと、そして基本的には悪いことはしたくないが、状況により悪魔の囁きに負ける弱いひとで構成されていると考えています。そのように考えると、人間と人間の争いをどう避けるべきか、どう仲裁すべきかが見えてきます。その考えの具体的な内容として、政治、教育、経済について説明していますので、興味のある方は、このブログの1.から15.に目を通していただければ幸いです。