イスラエルとハマスの戦闘に晒されている民間人の状況を見るにつけ、平和というものの有難さが身に沁みます。日本では、物価高が続き、生活が圧迫されていますが、だからと言って、我々庶民も不平不満を多く抱えてはいましても、その不満を肴に酒を汲み交わしたり、趣味に走ったり、いろいろなことでストレス発散することが出来ています。とりあえず命の危機を身近に感じることは少ないと思います。ガザ地区の人々が嘆いている姿を見ていますと、家族、友人、自分自身の命がいつ何時絶えてしまうかと言う差し迫った危険の中で、生活していくことは、どれだけ大変なことであるのか何とも悲惨な気持ちになります。このような状況では、どんなに逃避しても、幸せになれる訳は無いことだけは理解出来ます。
だから、私が幸せになる為の前提条件としていますのが、平和、平穏な社会であることなのです。このことは、ほとんど全ての人に共通すると思うのですが、残念ながら、戦争をしてでも、人を殺してでも、自分の欲望を叶えようとする人間が存在するのです。そして、その人間が権力を持ってしまうことで、戦争は実行されてしまうのです。
今回のガザ地区を巡る争いは、プーチン大統領がウクライナを自分のものにしようとした戦争とは違う、パレスチナ人が虐げられ、耐えられず犯した戦いだったと言われる人がおられるかもしけませんが、そうではありません。殺し合いをする覚悟があるのなら、非暴力の方法が色々と考えられると思いますが、残念ながら、好戦的な人達が中心メンバーであると、非暴力の方法を考えることに見向きもしないのだと思います。このような人をリーダーにしてはいけないのです。そのことに気付いていない庶民がどれだけ多くいるでしょうか。気付かせることこそ、本来の教育の在り方なのですが、そのような教育の内容すら権力者に握られてしまっているのです。多分、イスラエル、パレスチナ双方とも、小さいときから、お互いの暴力的な行為を聖戦などと美化され、敵に対しては、悪魔のように表現しているのでしょう。
このような憎しみと恨みを後世につないでいくことは、決して人を幸せにしません。殺し合いを止め、お互いが共存することを時間をかけてじっくり話し合うことしか、人を幸せにする世の中を作ることは出来ないのです。教育程度の高いイスラエルですら、そのことが広まっていないのは、相手を敵視することからもの事が始まるからだと思います。
かつて、オスマン帝国であったときは、多民族国家で、ユダヤ人もアラブ人も仲良く暮らしていたそうです。それが、イギリスがオスマン帝国を倒し、石油利権をものにしようと企み、民族国家を樹立しようと、ユダヤ、アラブ民族にそれぞれそそのかしたことが、長いこの地域の紛争として続いているのです。民族なんかより、個々が幸せに暮らせるように共存する道を選んでいれば、そのような悲劇が続くことも無かったのです。民族や国家や宗教などにこだわらせて、特になるのは権力者達だけなのです。民衆は、それより、平穏な暮らしが一番なのです。