このブログを読み返していますと、世界や日本の日々起こっています問題について嘆いていることが多く、本当に生きることが辛い世の中なんだと溜息が出てしまいます。
出来れば、ひとりひとりが少しでも充実した日々を送れ、幸せを感じられるようになるにはどうすればいいのかと自問自答しています。そこで、私が目指す社会を整理してみます。
最近の日本の義務教育のように、個性を殺して無理やり平等を押し付けるようなやり方では、人間の本来の幸せは得られませんし、成長や進化、発展も止まってしまいます。社会主義や共産主義のような力により平等を演出するようなやり方も同じ意味で上手く行くことはないのです。事実、社会主義、共産主義を標榜している国々も、結局、実質的に資本主義を導入しています。
人間はひとりひとり個性があり、得意なこと、不得意なこと、千差万別であるのが自然です。だから、例え、平等に扱われたとしても、画一的に人間を縛ると、人間は幸せにはなれません。人間の幸せの物差しはひとつでは無く、人間の数だけあるのが本当なのです。
ということで、社会が最低限守らなければならないことは、人間には、性別、民族、人種、宗教、階級などの様々な括り方など関係無く、平等に公平な機会を与えることなのです。それが私が思う人間に与えられるべき自由なのです。その同じ条件下では、競争があっていいのです。人間は自分自身の得意なこと、好きなことに打ち込み、その分野で競争して、出来るだけ良い成果を出せるように努めていく中で、充実を感じていくのです。それが人生の大いなる幸福感につながっていきます。但し、スポーツでも判ると思うのですが、競争の結果は、その能力、努力だけで決まるものではありません。能力があっても、努力しても運悪く敗れることも多々ありますし、それほど努力しなくとも、運良く成果を上げられることもあります。ですから、競争の結果、例えば巨万の富を得たとしても、そうだからと言ってその結果だけを評価し、運悪くそれほどの富を得られなかったとしても、その人が貧困に苦しんでもいいとしてはいけないのです。勝者へのご褒美も、青天井ではなく、反対に敗者でもその努力に報いるような仕組みが必要なのです。
私が望むのは、表面的な平等では無く、人間が迎えるべきチャンスに対する公平性なのです。それが守られる限り、ある程度の成果報酬に差があってもいいのです、それが人間のヤル気、モチベーションにつながるように、そして、幸せにつながるように。但し、真面目に生きている人間には、競争の結果に関わらず、ある程度豊かな人生を与えるべきで、その為に、例えどんなに勝負に勝ったとしても、成果物を一部の人間に偏らないようにすることが必要なのです。弱肉強食で、負けたものはどうなってもいいとしては、多くの不幸な人間を生んでしまい、その負のパワーが蓄積し、爆発すると、結局、社会全体が不幸の渦に包まれてしまうのです。
この基本精神をベースに、私は新ハルモニア主義と名付けた考え方を提案しているのです。