人類は、広大な地球を少しでも速く情報や物を運ぶ道を開拓して来ました。移動手段や通信手段の進歩も凄まじいものがありますが、先日、NHKの番組で、情報と旅客、物流の新たな道をつなげる大工事の歴史に関するドキュメントがありました。

 スエズ運河、パナマ運河、英仏ドーバー海峡トンネル、日本においては、青函トンネル、黒部ダム建設の為の機材運搬用の山岳間大トンネルなどの工事が出て来ました。また、太平洋、大西洋のような大海に設けられた海底ケーブルも驚くべき距離間を敷設されて来たことも驚くべきことでした。

 今日、このような大工事は、大型の掘削機など重機が主役となっていますが、かつては、莫大な人手を要する人海戦術での工事を重ねて来ました。そのようなことで、事故や感染症、栄養不足などによる工事での死亡者は前述したような大規模工事の場合、数万人を数えることが当たり前となっていました。重機が主役となってからも、地盤の崩落などで、多くの死傷者が出るのを防ぐことが出来なくて、例えば、最近の日本のリニア新幹線のトンネル工事でも、崩落事故により死傷者が出ています。

 我々は、当たり前のように運河やトンネルを利用していますが、その完成までには、多大な犠牲が払われて来たのです。そのように工事作業員がかつては、劣悪な環境下で、現代でも、まだまだリスクを持って工事に取り組んでいる人達が存在するから、我々の今日の便利な暮らしが成り立っているのです。

 古代エジプトのピラミッド、中国の万里の長城、日本においても、多くの巨大建造物が、多くの人達、ほとんどは奴隷や下層階級層の労働力により、建設されて来ました。そのときの犠牲者はさらに膨大な数であったと推察出来ます。現代では、かつてのように下層階級層が無理やり動員されたのではありませんが、それでも死亡者が当然のように出ているのに、考えされられる思いがします。これだけ技術が発達して来たのに、安全に工事を進められないのは、何故でしょうか。山や海と言った自然を相手にするから、全てを予期するのは難しいと言われる人もいますが、私は違うと思います。公共工事と言っても、結局、予算、工期が定められ、その中で許される範囲の安全対策しかやって来ないからではないでしょうか。

 ここに、大きなジレンマがあります。人類の生活向上を目指し犠牲者を許容して進むべきか、例え、工事費が膨れ上がろうと、安全を最優先にした計画にするかです。現在は、前者が選択されています。この判断は、自分が危険な目に合わない、政治家、官僚、施工会社の幹部が決めています。事故が起こったときの彼らのいい訳は最善を尽くしたが残念だ、二度とこのようなことが無いように努めたいと言うものです。

 これが、今でも、権力側にいる人達のスタンスです。身分差別など無い公平な社会だと選挙や公式的な場で発言していますが、結局、自分達が良ければいい、そのしわ寄せを弱者に求めることに平気なWEタイプ、DEタイプの人達が権力を握っているのがわかります。

 我々が求めるべきは、自己の利益よりも弱者の命も同じひとつの命として大切に守るAE型の指導者が権力を持つことなのです。


 AE、WE、DEの意味については、新ハルモニア主義の基本を述べたこのブログの1.から15.を読んでみてください。