能登半島地震の被害のニュースが連日続いています。
六人家族が正月に実家で過ごす為に帰省している最中に被災し、母親、子供4人、そして実家の親族ら、計10人が亡くなったそうです。残された父親は一人で途方にくれていましたが、犠牲になった家族の為にも、強く生きて行くと決意された姿は何とも哀れで、この世の無情を目の当たりにした気分です。もし、この地震が正月に起こらなかったらこの一家は被災していなかっただろうし、地震が能登半島からづれていたらと、いろいろな仮定に苛まれておられるのでしょう。
天災とはよくいったもので、我々人間では計り知れない、御することが出来ない災害なのです。このような悲劇に見舞われてしまうと、何を信じていいのか、これから何を頼りに生きていけばいいのか分からなくなると思います。たまたま私や家族は今回は被災しなかったのですが、それは運が良かったと言えると思いますが、この先に同じような目に遭うとも限りません。しかし、そうだからと言って、これからの人生を投げ槍に過ごしてしまうと、もっと大きな悲劇を呼んでしまいそうだとも思い直して、これまでと同じように、自分の幸せの物差しに照らして、生き方をコントロールしなければならないと思います。そう思ってはいても、真面目に自分の人生を歩んでいても、今後このような天災や事故や事件に巻き込まれないとは言いきれないとの不安もあります。
先人達の人生を歴史などから紐解いていて分かるのは、そのような理不尽なことは決して珍しくないと言うことです。天災ばかりでは無く、人災、つまり一握りの権力者の欲望が引き起こす戦争や様々な争いごとに巻き込まれ、悲惨なことを経験して来た人達の方が、一生平穏に暮らし終えた人より、断然多いことも知っています。
じゃあどうすればいいのでしょうか。そのような理不尽極まりない社会なので、多くの人々は宗教に救いを求めて来た歴史も確かにあります。しかし、怖いのは、そのような人間の弱さに付け込んで、宗教を金儲けや権力の為の道具とする不埒者も多くいるのが問題です。
また、一部のものは、社会の恐怖に対して、権力で対抗しようとするのです。独裁者もその一種だと思います。近代では、事業を起こし、莫大な富を得ることで、悪夢を振り払おうとするものもいます。
私は、そのような人達に成りたいとも思いません。権力や富はちっぽけな人間に莫大な力を与えてくれますが、それでも、平穏な生活を与えてはくれません。彼らの末路は歴史を見れば解ります。私が求めているのは、平和で平穏な世界です。その中で、幸せを感じることに打ち込める、そのような生活を求めています。実はこのことが最もいいと思うのは、権力と富の上に築かれた人生は、必ず、多くの他人の犠牲を伴った上にしか成り立たないからです。それに比べ、私の幸せは、多くの人達の幸せと共存することが出来るからなのです。争いを必要としないからなのです。
人災については、新ハルモニア主義を貫けば、ほとんど回避できると思っています。天災についてはどうでしょうか。まずは科学技術の発展を進めるのと、それらをもっとも効果的に活用出来るような社会のルール、仕組みを作ることです。しかし、それでも人間の力がまだまだ及ばないような災いもあると思います。それに対しては、そのようなことに遭遇して、例えば命を奪られたときに、自分の人生は幸せだったと感じて死ねるように、日々の生活を意味のあるものにしていくことだと思っています。人間、いつかは死ぬのです。死から逃れられた人はいません。だから、死と言うものは必ずやって来るんだと認め、死ぬまでの人生をどれだけ充実させられるか、充実させられるように邁進するかに努めたいと思います。