街を歩いていますと、歩行も覚束ない老人が、自転車に乗っているところに遭遇することが度々あります。今日も、割と人通りの多いアーケード商店街の中を自転車に乗って人混みの中を右に左にハンドル操作も怪しく、あちことで危うく人とぶつかりそうに走っている老人を見かけました。この道では自転車は降りて進むのがルールなのですが、それも無視して、且つフラフラ走っている姿に、驚かされてしまいました。今までも、コンビニの駐車場から普通の速度で出て来るトラックを避けるのに転倒した老人や、ちょっとした歩道でのすれ違いにバランスを崩しそうになる老人の姿なんかもよく見かけていたのですが、いずれも本人は大丈夫と思って運転していたんだなあと怖くなりました。
老化はすべての人に例外無く訪れる現象です。交通に係る反射神経や認知能力が衰えて来るのは必然だと思いますが、中々自分自身のこととなりますと、客観的にその衰えを理解出来ていない人も多いと思います。自動車の運転でも、周りのものは老人の衰えを感じていても、本人はまだまだ大丈夫と認知している人が多いような気がします。それほど、自分自身の事は客観的に判断出来ないものだと思います。
そこで、先人の状況を参考にして、自分自身の感覚を信じるのではなく、客観的な視点を持つことが重要だと思います。そのような視点を持たないと、老化が進んでいろいろな能力が衰えていたとしても、理解出来ないようなのだと思います。そうなっていますと、自転車や自動車の運転にしても、物事を判断することでも、自分は昔と同じように出来ていると勘違いしてしまうのです。そのことが、他人に迷惑や害を与えていても、ピンと来ないことになってしまうのです。
我々は、そのような前例を知り、ある程度の年齢に到達すれば、周りの人達の意見を素直に受け止めないといけません。例えば子供がお父さんの運転は危ないとか、自転車運転でもフラフラしているとか言われたら、例え自分は大丈夫と感じていても、周りの人達の意見が正しいのだと判断すべきなのです。そこで、頑なに自分はちゃんと出来ているのに、失礼なことを言うとはけしからんと一刀両断してしまうことがあってはならないのです。
もちろん、老化のスピード、程度には個人差があります。だからと言って自分だけは大丈夫と思ってしまうことこそ、老化している現われだと思うべきです。
老化することは悪いことではありません。老化し、滅んでいき、新しい命をつないでいくことに生物としても意味があるのです。つまり、進化していく為には、新陳代謝が必須なのです。人間も長い期間生きて来た上での経験から得られた知識、技術、ノウハウ、考え方などは貴重なものです。しかし、いつかは死んで行くのですから、得られたものを次世代に伝授していくことが重要で、いつまでも居座っていてはいけないのです。老人が居座ることは、進化を妨げるだけではなく、社会に腐敗を生むことも多々あります。
このようなことを理解して、歳を重ねていけば、自ずとその行動は謙虚となり、自分自身の欲望達成よりも次世代の育成に重きをおいていき、尊敬される老人となれると思います。
社会には、老害とも言える老人の居座りや横暴があちらこちらに見られます。それが無くなれば、かなり平和で思いやりに溢れた世界となるような気がします。
自分自身も、このような考えを強く意識し、歳終えていきたいと思います。