福岡県の中学校で、中学側の事務的な手違いで公立高校への入学試験願書の提出を忘れ、申し込み期日を過ぎたと言うことで、三人の願書が受理されず、この生徒達は第一志望校の入学試験を受けることが出来なかったと言うニュースを聞きました。
高校は個人からの提出は受け付けないで、中学からまとめて提出することになっていたそうです。だから、今回のケースでは生徒達の落ち度は全く無かったのですが、高校側はルールだとして、願書を受理しなかったのです。確かに、中学が締め切り内に提出を忘れた落ち度があったとは思いますが、そうだからと言って、罪の無い生徒に対して受験をさせないのは筋が違うと思います。生徒達自身の落ち度で提出が遅れたと言うのであれば受験出来なくとも生徒にも納得がいくとは思いますが、そうでない今回のケースでは、中学校側にはペナルティがあってもいいですが、生徒に課すのは全く理解に苦しみます。
もともと、生徒個人では無く、中学校でまとめて願書を提出させるのは、高校側の事務的な混乱を避ける為の手段であります。言い換えれば手前勝手なルールなのです。ですから今回のようなケースでは、生徒達に何らかの救いの手を与えるべきだと思います。それが教育現場の人達が持たなければならない若い生徒達への教育的な配慮だと思います。自分達で作ったルールを盾に、この教育的な精神をないがしろにして言いわけはありません。ようするに、ルールそのものを絶対的なものとするのか、ルールのさらに上位にある教育的な考え方を尊重するのかの問題なのです。高校の関係者もそこの所に気付くことが出来れば、やれることはあった筈です。
法律やルールは何の為にあるのでしょうか、そのことを深く考えることが法律やルールをどのように運用するべきかを適切に決めることが出来る鍵なのです。
法律やルールについてそのもの自身を絶対的なものとしてしまうと、例えば、昨今の裏金問題で法律には触れていないでしょうと開き直っている議員達をすべて許さねばならなくなってしまうことと同じなのです。この議員達は法律の不備な点をついただけで、決して許されるような行為をしている訳ではないと思います。そんな法律は変えるべきなのです。
法律、ルールは人間の活動が出来るだけ正しく、スムーズに進むように作られるものですが、所詮、人間自身が作るものですから、絶対的に正しいものばかりではありません。いつでも問題が出てくれば法律、ルールは柔軟に見直す必要のあるものなのです。絶対動かせないものではありません。
このことをよく理解していれば、今回の中学当局による願書の提出忘れの問題への高校側の対応も、弱い立場の生徒達の進路に非常に大きな影響を及ぼす点を考慮し、この問題を穏便に解決出来たと思います。