北京冬季オリンピックが開催しました。コロナ禍、人権問題でいろいろと競技以外で注目されている大会でもあります。オリンピックそのものは、子供の頃からワクワクする対象でありました。4年に一回という希少なチャンスに、各々のアスリートが極限の緊張感の中で、厳しい鍛錬の成果を現すことにいつも感心し、感激したものでした。しかし、あるときからプロ選手が参加できるようになり、それに伴い、お金が膨大に集まるイベントとなって来てから、なんとなく胡散臭さが感じられるようになって来ました。IOCと言う組織の上層部が、お金を集めることに執着しているように見えて来ました。確かに、メダルそのものには、賞金という副賞は付いていませんが、出身国や出身団体、企業から報奨金が支払らわれることも、やはりお金が無ければ選手のモチベーションが上がらないということを如実に表わしています。そういう意味で、世界レベルでは、プロとアマチュアの線引き自体非常につけがたいものとなって来ましたので、かつてのようにアマチュアの祭典とはなり得ないと理解するしかありません。それでも、純粋にスポーツの祭典を世界の人々が楽しめるように、オリンピックは続けるべきだと思います。そのために大変革が必要だと思います。
 つまり、今のままであれば、オリンピックを開催するためには膨大なお金が必要となって、今後、開催希望する都市が減少の一途を辿っていく問題も顕在化していますので、この際、オリンピックの在り方を大幅に見直すことが必要であると思います。
 元々、オリンピックは国際スポーツの祭典と呼ばれていたのですから、お祭りの一種とも言えると思います。お祭りの原点は、その費用は、それに参加する人々や団体の寄付で賄われるべきと思います。寄付と言っても、企業などの場合は、宣伝効果を考慮している場合も多いと思いますが、集められたお金の一部で、生活を賄うような悪い言い方で言いますと寄生虫のような人達を養っていくことはあまり無く、主催者は手弁当で支援していくのが本来のような気がします。一方、オリンピックには、IOCと言う団体がありその関連で、4年に2回(夏季、冬季)の開催が主体のはずが、毎年多くの報酬を受け取っている人達がいるのです。お金がかかり過ぎて、開催も危うくなっているのなら、本来の姿である、競技を行うことだけに費用を支出し、競技に直接関係無い費用を無くしていけばいいのです。分かり易い典型的な例を言いますと、IOC会長が、昨年の東京オリンピックに日本を訪れたとき、都内の高級ホテルの一泊うん百万円のスイートルームに長期滞在する(選手は選手村でダンボールベッドに寝ていたのを考えますと、アスリートが第一なんて口先だけのことで、自分が一番と思っているとしか考えられません)のも、もちろん本人の負担ではなく、オリンピックの費用の一部で支払っているようです。手弁当で支援する精神であれば、滞在費くらい自分で支出すればいいのですし、百歩譲って、高級ホテルの一泊数万円くらいの部屋(我々庶民にとってはなかなか簡単に宿泊できないのですが)に泊まれば十分と思います。このような競技そのものと直接関係無いところにオリンピック開催費用が支出されているのです。これはほんの一例です。言いたいのはこのような精神構造であれば、もっと巨大な無駄遣いが多数あると思います。そのような無駄遣いを削っていけば立て直しは可能なのです。
 このような状況の中で、開会式でのバッハ会長の挨拶を聞いていますと、スポーツとアスリートの素晴らしさ、それへの献身を美辞麗句で謳っても、空々しく聞こえてきます。真にアスリートの為にどのような大会にすべきか考えているとは思えません。多くのお金を出すスポンサー、国、都市の関心を如何につなげていくのかということに腐心しているとしか思えません。その点で役に立つのなら、オリンピック精神に反し、人権など軽視する国であっても、その国とその指導者を称え、国際的な非難の声など無視して強引に金満オリンピックを進めるのです。
 東京オリンピックのときに経験しましたように、このようなマネーゲームに踊らされている大会ではあっても、競技での選手の健闘を見てはやはり感動してしまいます。だからこそ、選手の為に、オリンピックの原点に回帰させるべきだと思います。

投稿者

弱虫語り部

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