今日のような雨の日でも、川岸の遊歩道では、鳥たちが懸命に餌を探して、忙しく嘴で地面をついばんでいました。彼らは腹を満たす為に、長い時間そのような動作を続けているのです。もしかしたら、一日中餌探しに翻弄されているのかもしれません。

 我々人類も地球上に出現してしばらくは鳥たちと同じように食料を求めて一日のほとんどの時間を過していたのかもしれません。その当時では、そのような日常の中で、ある程度腹が満たされ、猛獣や敵から襲われる危険性の無い時間を過しているときがほんのひとときの平穏であり、その時間を堪能していたのかもしれません。幸福感の原点はそんなところにあったのではないかと推察します。そのような感情が今でも我々の根底に残っているような気がします。

 一方、その後、もっと安定に生活したいと言う願望から、農業、漁業、畜産業などある程度計画的に食料を確保するような手法が見い出されていったのでしょう。それで、食料などの富がまとめて手に入れられるようになれば、強い者達が、それを搾取するようになり、支配するものと支配されるもので構成された社会構造が形づけられてきました。その構造には、階級というもので人間を区別し、支配しやすいような制度も生み出されたのだと思います。

 このような一握りの支配層と大多数の非支配層と言う社会が長く続いていくのですが、ひとりひとりに焦点を当てますと、個々にはそれぞれが生きて行く為のモチベーションが必要でした。力で押さえつけて、むりやり従わせるだけでは、支配される多数の民衆の生産性が下がり、収穫も減少してしまうことは非常に問題でしたし、彼らが飢えるくらい搾取してしまうと、革命のようなことも起こりかねません。階級はそのような所にも活かされていて、自分より下の層に対しての優越感を持たせることが一種の捌け口となっていました。江戸時代の士農工商制度では、特に農民から多く搾取する為に彼らを二番目の階級にし、さらに、非人という最下層の人間を作って、農民の優越感の向け先としたのでした。このような歴史の経過の中で、人間の欲望として、支配欲、権利欲、所有欲などが入り乱れて人間の行動を司って行ったのも確かだと思います。その為に、これらの欲望を達成することが幸福だと勘違いする人間が多数輩出され、そのことで人間社会は大きな争いを生んで行ったのです。結局、それらの欲望を満たすことは、幸福の原点である平穏な暮らしを乱す結果になりました。そのことからも欲望を追求し、果たすことが幸福感につながるものではないと言っていいと思います。

 それでは、どんなことが幸福につながっていくのでしょうか。それは、平穏な暮らしを導くことに役立つ行動における達成感だと思います。それは、新しい技術を発展させることでもいいですし、事業を創ったり、発展させることでもいいですし、芸術やスポーツやエンターティメントの世界で多くの人々を喜ばすことでもいいのです。また、地道な仕事をきちんとやり遂げることでもいいのです。マイナーな趣味でも、それで喜びを分かつことが出来る人がいれば充分です。すべてに共通するのは、争い合うのではなく、多くの人間が平穏に暮らせる社会に通じる活動であるのです。

 このような観点から、自分自身の幸福を考えてみてください。新たな気付きがあると思います。