前回のブログで中国で親のスネをかじっている若者を総称する言葉を紹介しました。彼らは都市部の裕福な家に生まれ、働かなくても暮らしていけるのですが、一方、農村部に生まれた人達は未だ貧しい暮らしを送らなければならないようです。中国では、生まれによって都市戸籍と農村戸籍とに分かれているようでして、農村戸籍の人達は収入も少なく、社会福祉サービスもほとんど受けられていないようです。例えば、公的医療予算の配分は都市戸籍の労働者が受ける水準が農村戸籍の約4倍に上るケースも報告されています。60歳を超えた住民の約16%が不健康であり、一方、都市部は10%にも満たないそうです。そして、少ない年金で小さな畑を耕して何とか質素に暮らすか、都市部に出稼ぎに出なければ生活出来ない状況なのです。中国の農村住民はわずかな年金で死ぬまで働かなければならないのが現実なのです。

 公式には、共産主義、社会主義を標榜して来た中国ですが、現実には貧富の格差は大きく、日本に観光に来て、豪遊するような人達は全人口の10%くらいの都市部の富裕層なのです。

 世界は様々な主義や宗教によって細分化されていますが、そのようなことに関係無くほとんどの国で貧富の格差が歴然と存在しているのです。歴史的には腐敗した国家権力を倒す為に、産業革命や共産主義革命や宗教革命が起こって、いろいろな政治形態の国が出来上がって、今の世界を形作っています。しかし、主義主張は違えども、結局は様々な形態の格差社会が残されてしまっているのです。

 それは支配する側と支配される側と見れば、どのような国もその構図に当てはまります。支配する側は多くの富や権力を独占して、大多数の支配される側はわずかな富を分け合って何とか生活しているのです。そうだからと言って、支配している側にいる人達が幸せだとは限りません。中国の富裕層の若者に蔓延る厭世観を見ますと、ただ単に富があるだけでは、駄目だと分かります。

 私が常々感じて来ましたのは、そのような世界を見て来たからなのです。貧困では幸せな暮らしは送り難いですが、かと言って、富があっても幸せになり切れない人達が多数存在している訳です。だから、出来るだけ多くの人達が幸せな暮らしをつかめるような環境にするには、富を分け与えつつ、各々が社会に貢献出来る仕事に就き、その中に遣り甲斐を感じていくべきなのだと思うのです。もちろん、仕事以外にも充実感を感じられるような趣味などに没頭するのもいいのですが、その生活のベースには、自分の食い扶持は自分で稼ぐ為の仕事は無視出来ません。そして、嫌々仕事をしていては、人生の多くの時間を無駄にしてしまうので、仕事にも遣り甲斐を見つけるべきだと思うのです。