次回の東京都知事選挙への立候補者の顔ぶれが出揃って来ました。海の向こうでは、秋に迫る米国大統領選挙の話題が多く出ています。どこの国でも候補者達の熱烈な支持者の動きも目立って来ています。その一方、冷めて見ている大半の有権者達との対比もはっきりしています。

 熱烈な支持者は自分達の利益に通じると考える候補者を何とか当選させようと躍起になっています。その候補者が人格的に問題があろうが無かろうが自分達に利益があればそれでいいのでしょうか。それとも、盲目的になっているのでしょうか。東京都知事選挙では、どの政党が誰を支持する、どの団体が誰を応援するというようなそれぞれの思惑と損得勘定が入り混じった一般民衆を置き去りにした闘争が繰り広げられています。

 私は人の上に立ち、自分を滅して、多数の民の為に尽くすような人物はAEタイプであって、人格的に怪しい筈は無いと思っています。それに対し、大部分の候補者は自分の欲望を達成する為に権力と富を得ようとしているとしか感じられません。それは私ひとりだけのうがった見方でしょうか。自分の長い経験から人を見る目も備わって来たと思うのですが、どの候補も諸手を上げて支持したいと思えません。少なくとも、有力候補と言われている人にはいません。

 つまり、今の選挙システムでは、ネームバリューのある人が、政党や団体との利害関係を共有して、組織票を集められる人でないと有力候補となれない、そして当選も出来ないと思います。一般の有権者からは、有力候補のマスコミが流すイメージと表面的な綺麗ごとの公約でしか、誰に投票するかを判断することが出来ません。もしかしたら、無名候補に素晴らしい人物がいたとしても多分判らないでしょう。つまり、このような選挙をやっている以上は、政党などの強力なバックアップを持ったものが有利となります。もちろん、今の政党や団体が本当に人物を見る目があればそれはそれでまだましかとも思いますが、民衆の為に尽くせる人というような観点で支持する訳ではなく、自分達の利益になるかという思惑ばかりが先行しているように思います。

 民主主義の難しいところは、数がすべてを決してしまうことだと思います。そしてその数を獲得するには、一般民衆の為に尽くせる人であるより、ネームバリューや利害関係を上手く利用することが決定打となってしまうのです。

 私が主張するのは、先に示したような特別な条件を満たせる人しか当選しない選挙システムを大幅に変えていかないといけないと言うことです。それには、これだけ発達した情報技術を利用しない手はありません。この選挙システムを変えたくないと思っている今の政治家達はあれこれ屁理屈をつけてそれを拒否していますが、民主主義の数の論理が真の民衆の総意とリンクするようにシステム設計することに叡智を結集すれば、出来ると思います。