会社などの組織で、「歯車になる」ということがよく言われて来ました。ひとりひとりがきちんと歯車の役目を果たせば、その組織は全体できちんと機能するということみたいですが、いい意味にも、悪い意味にも使われています。悪い意味のケースでは、心を持たずに自分に与えられた役目をきちんと担うと言うことは、人間性が欠如しているので、それは機械と同じであるという点を問題視していることから発せられていると思います。一方、軍隊などのような組織では、人が個々に判断することよりも、上から指示されたとおりに行動することが求められます。このようにいい意味と言われる場合は、命令に絶対服従することが良しとされる組織だけで使われているようです。
私の主張も、この言葉は悪い意味だと考えています。誰か一部の上の人が考えたことを、組織全体で忠実に実現するということは、一見効率的だと思われます。しかし、この構図が成り立つ為には、①上の指示が全く間違っていないこと、②その指示が完全に明確で、その指示を受けて行動する人が自身の判断が入る余地など全く無く、迷いなく実行できる完璧な指示であることが必要です。つまり、そんなケースはほとんどあり得ないのです。
例えば、前回のブログでも話題にしました、北京オリンピック、ジャンプ混合団体での規定違反問題を例にします。一番の命題は、選手が公平に競技をすることで、来ているスーツの違いによって有利不利があってはならないという所が発端です。それにより協会の委員の方達などが、スーツについての規定を作ります。女子の場合、身体より2~4cmオーバーサイズに留めることとなったようです。次にこの規定に違反するものがいないかチェックする方法を考えたと思います。それが、競技直後、全員ではなく無作為に(ここに曖昧な判断が入ります)、決められた検査員(誰を、何人これにあてるかという判断が入ります)が、そのひとのやり方(ここにも判断が入ります)で検査します。今回、問題になっているのは、身体計測するとき腕をどこに置いてやるのかという点で今までのやり方とは違った、スパッツを履いたままやるのか、今回は脱いで計測したのですが、このような計測時の細かいやり方が、検査員に任されているようだということです。つまり検査員は、完全な歯車ではなく、自身の判断が入る余地があったのです。一方、この問題発生後、検査員は、自分は決められたとおり、間違い無く検査をしたので、一片の問題も無いというような発言をしていましたが、これが歯車的発言にあたります。もともと選手達が公平に競技をするための規定だということなのに、いつのまにか、検査を受けた選手が2~4cmの範囲を超えたスーツを着ていることを自分の裁量のあるやり方で判定することが目的であるとすり替わっていて、それが正当だと主張しているのです。本当に必要なのは、故意に違反して競技に有利に働くスーツを着ないようにさせることが当初の目的であったはずなのに、全体の経緯を見れば、たぶんほとんどの選手が故意に違反などしようとしていないのに、失格とした、つまり彼らを「不公平に競技から排除したこと」に全く考えが及んでいないことが大問題なのです。一見、歯車のように振る舞う(自分の責務はこの範囲でそれを全うしたと勘違いする)ことが、本当の目的を逸脱してしまうことになってしまうことが危険なのです。
これはほんの一例に過ぎません。誰かが作ったルールや規則を厳格に守ることしか考えていない歯車的な人がいますと、人間の作るルールや規則はその主旨から捻じ曲げられることになる可能性もあります。身近な役所や会社にもいろいろとそのような実例を見かけられます。役所の窓口の人が、決まりですので出来ませんと言われることを経験したことは皆さんもあるのではないでしょうか。役人とは、善良な国民、県民、市民の生活を守ることが仕事のはずですが、実際にやっていることは、決められた自分の職務を全うすることが仕事の目的となってしまい、いくら市民の願いが的を得ていたとしても、前例が無ければ認めないのが通例なのです。
そのルールや規則を作るに至った目的、狙いを常に振り返って自身の行動の正当性を厳しく問うことが、ルールや規則を振りかざす人には本来求められる資質であるべきなのです。オリンピックジャンプのケースであれば、単に自身の正当性を主張するばかりではなく、「自分は規定通り実行したつもりだが、混乱を招いたことは大変遺憾と思う、今後はこのような騒動にならないようにするために、改善するべきところは改善したい。」というようなコメントをせめてして欲しかったのです。
一方、組織の上の人は、このような歯車的な人を守る傾向にあります。それは、自分の命令に盲目的に従う人こそ可愛いからです。これが、軍隊、独裁国家、独裁企業には頻繁に見られます。上の人の命令に意見する心ある人は、排除されるのです。
というような点で、私は、ひとは歯車になって欲しくはなく、心ある人間としての行動をして欲しいと切に思うのです。そこに真に温かみのある社会が存在できるからです。