幸せを招く考え方ですが、自分固有の物差しを持って判断することが大切です。それは自分固有の幸せの物差しにも通じるものです。多くの人達が言っていることが自分自身に対しても正しいとは言えません。あまり真剣に物事を考えなければ、人が言っていることに流される方が楽ではないかと思う人もいるかもしれませんが、それが大きな落とし穴となってしまうことがよくあります。

 教育現場で画一的な評価法をして来たことで、自分自身にとっての本当の幸せを見つけられない人が多くなってしまったような気がします。テストには正解が必ず存在します。そのテストの点数が高い人が優秀だと評価されます。反対にテストでいい点数をとれない人は落ちこぼれとなっています。しかし、学校のテストの成績で表せるのは、極狭い範囲の能力でしかありません。極端に言いますと、受験テストで高得点を取れる能力でしかありません。それはそれで意味は無いとは言いませんが、それで社会に貢献出来る能力を全て網羅出来ている訳では決してありません。そもそも社会に存在する問題には答えがひとつしかないケースなどほとんど無いのです。

 学校の勉強でいい成績を残せなかった人が社会に出て、ある分野で高い評価を受けることはよくあると思います(もちろん、学校の成績も良くて、社会に貢献出来る能力を持ったひともたくさんおられます)。

 このような真実を子供達にはしっかり教えなければなりません。それは教師も親も理解すべきです。もし勉強の成績が悪くとも、その子がどんな能力が優れているのかを見出すことが、教育での最優先事項なのです。そのような観点で、子供達ひとりひとりを見れば、落ちこぼれの子など存在しないのです。学校で教える学科、特に受験科目をあまりに優先して来たことで、先生にも親にも、そのような本質的な目が曇ってしまっているのです。

 多分、教師も親も幸せをどうして見つけたらいいか、自分自身もわかっていないから、そのような画一的な考え方、評価法しか思いつかないのかもしれません。

 ですから、学校では、幸せ学と言うような講義が必要になると思います。そのような学問は長い人類の歴史の中では哲学という分野に含まれているのでしょうが、それを一般の人達にも分かり易く、整理すれば成り立つような気がします。このブログで、私が学んだり、経験したことから幸せ学のエッセンスを抽出しようと試みているとも言えるかもしれません。

 話が脱線しましたが、今回お伝えしたいと思うことは、幸せは、画一的な考え方や教育からは見つけ難いと言うことです。共通する真理はあると思いますが、評価の物差しは個人個人で千差万別であることを前提に考えないといけないと言うことです。

 

投稿者

弱虫語り部

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