最近、ニュースに登場している人の学歴を見ていますと、一流大学出身者が目につきます。パワハラ疑惑の兵庫県知事も東大卒ですし、東京都知事選挙で有名になった石丸氏も京大卒です。何となく共通するのは、他人の意見に耳をかさない、自説を曲げない頑固さです。政治家にとって、強い信念は必要ですが、他人の意見を聞かないのは致命的な欠落だと思います。
一流大学に入学した人は、受験エリートだと思いますが、それだからと言って人徳に秀でているかは分かりません。そして、受験エリートとは、受験に必要な勉学には優れているでしょうが、今の入試内容から考えますと、主要科目に限った膨大な知識を記憶出来ているだけで、本来、社会のリーダーたる人物に必要な見識、知恵、徳が備わっているかは別問題です。一流大学の教育がリーダーたる人材の育成をしているのだと思っているのかもしれませんが、残念ながら、専門的な知識修得がメインで、間違ったエリート意識を叩き直しているとは言い難いと思います。ある意味偏った能力を、いかにも全人格的に優れていると、本人も周囲の者も勘違いしている状況が続いていると思います。一流大学を卒業した後も、官僚や一流企業に入って、その勘違いのまま生きて来た人達も多くいるのではないでしょうか。そのような環境で、彼らは自分自身をエリートだと認識し、他人に対し間違った優越感を潜在的に持っている人もいると思います。
もちろん、すべての人がそうだとは思わないですが、そのような勘違いに陥る人も少なからずいるのは間違いないのです。それが政治家になっても、変わらず、自分より地位の低い人間に対して、無自覚ではあるかもしれませんが、パワハラ的に対応しているのかもしれません。
このようなタイプの人は、往々にして、他人の苦しみなどはあまり理解出来ません。自分がやることが正しいので、それを理解出来ない、または反対するような人は愚かな人間であると見なしてしまうのです。この想像力の無さ、独善思考が周りの人達を不幸に落とし込むのです。
という事ですので、そのような人は官僚や企業人から政治家に転身したとしても、性根は変わりません。政治家はもっと多くの庶民、ましてや底辺で暮らす人々のことにも気を配り、出来るだけ多くの国民、県民、市民の生活や安全を守っていかなければなりませんが、そのようなことにあまり心を砕くことなどないでしょう。本音レベルでは、自分のやろうとしていることが正しいのだから、下々はそれに従えばいいんだと言うようなやり方だと思います。
選挙の公約では、そのようなやり方が一見強いリーダーシップに感じることもあり、人気を得るかもしれませんが、実際の行政活動では、組織に軋轢を生じさせ、民衆の思いからも離れた行動をしていくことが考えられます。選挙のとき、そのような点にも充分注意して、一票を投じなければならないと思います。