前回のブログで、受験テクニックを磨き、一流大学に入学、卒業したいわゆる受験エリートの限界について述べました。
そして、そのような知識詰込み型の勉学で鍛え上げることはもう今の社会のニーズに即していないのではないかと思います。確かに、昭和の途中までは、膨大な知識を頭脳に記憶することは非常にメリットがありました。当時には、多くの情報は本のような紙媒体にしか記録出来ていなかったからで、まさか図書館を持ち歩くことが出来ないので、それを頭に記憶していることが求められたのです。大学受験だけではなく、司法試験、公認会計士試験、税理士試験、弁理士試験など、難関の資格では、膨大な知識の記憶が問われて来たのです。
しかし、現在、IT技術、AI技術などが大きく進歩して、小さなスマホさえあれば、必要な知識を簡単に、タイムリーに取り出すことが出来ます。膨大な情報を記録することは、人間より機械の方が得意になっているのです。と言う事ですので、人間に求められるのは、膨大な知識を記憶する事では無く、必要な情報を出来るだけ即座に、効率的に、的確に取り出す能力の方が意味があることとなって来ました。検索ソフトやAIの使い方に優れている方が必要な情報に的確にヒット出来ると思います。そして、一番、人間に求められるのは、取り出した情報をいかに活用して、あらたな創造を生み出すかなのです。
このことを前提に考えますと、今の教育カリキュラムも試験の内容も、全く的外れなことに時間と労力を費やさせているのです。そのことにどうして気が付かないのでしょうか。教育システムを決めているのは、文科省、教育委員会です。それらの幹部もまた、受験エリートと呼ばれる人達なのですが、彼らは前例を踏襲することには長けていますが、全くあらたな創造力を発揮するとなるとからきし弱い人がほとんどなのかもしれません。
教育に求められている前提が大きく変わって来たことをきちんと認識し、土台から大変革させなければ、現代の社会に求められる人材を育成し、必要な所へ輩出していくシステムが機能しなくなり、特に、社会をリードするような人材、政治家や官僚、企業幹部に旧態依然とした人材が占める現状を打破出来ないと思います。これにより、益々、我々庶民の生活が混乱していくと思います。