いよいよパリ夏季オリンピックが開催されます。前回の東京オリンピックは新型コロナウィルス流行の為、一年遅延しましたので、三年振りとなります。マスメディアでは、これに関わるニュースが連日報じられていまして、否が応でも気分が盛り上げられて来ます。
私個人としましては、個々の競技に打ち込む競技者の方達の奮闘には関心ありますが、周辺のお祭り騒ぎには、いつもビジネス、金儲けの香りがして、胡散臭さに閉口しています。
これまでにも、オリンピツクの金満体質に対して批判的なブログを載せて来ました(「52.オリンピック改革の視点」、「57.クーベルタンの描いた世界へ」、「178. オリンピックは金(キン)よりも金(カネ)が大切?」)。
昨今は、何でもビジネスとして捉えていく風潮が強く、オリンピックのような大きな利権が絡むイベントには、その甘い汁を吸おうとする害虫が多数集まって来ます。これまでも述べて来ましたように、創設者クーベルタンの意図は、スポーツを通じて、若者の健全な育成を目指し、国籍、人種、宗教などを越えた人間のつながりを促して世界平和の実現を目的にしたものでした。私はこのクーベルタンの意志に強く賛同しています。お金儲けは各種プロスポーツに任せておけばいいと思うのです。それこそ、莫大な賞金を目指して、プロアスリートが奮闘するのは、それはそれで、金拝主義に徹底していても仕様が無いと思うのです。しかし、オリンピックは金よりも、個々人の人類の限界への挑戦という崇高な目的だからこそ、感動出来るものだと思うのです。
何故このような金満オリンピックになったかは、オリンピックに名を借りて、己の富を得ようとする輩が多数存在するからです。いわゆる五輪貴族と言われる人達です。彼らがその権限を利用して、オリンピックで儲けようとするマスメディア、企業やオリンピックで国威発揚を狙う権力者と手を組み、その結果として、今の姿になったのです。
五輪貴族としては関連施設建設、運営に関わる費用を賄う為に放映権、広告料などと言った莫大な収入や主催国の協賛費用を集めていると言う建前の元、その中から、自分達の優雅な生活に必要なお金を捻出しているのです。
このような現実を変えないといけないと思い、前述した「52.オリンピツク改革の視点」で私の改革案を示しました。最も重要なことは、オリンピック委員などは手弁当でその任にあたるべきだと言うことです。そのボランティア精神がオリンピック精神に通じるものだと思っています。