パリオリンピックで、連日、熱戦が繰り広げられています。世界トップレベルの選手のパフーマンスには驚愕しますが、勝者と敗者の壁は非常に高く、特に微妙な判定によって敗者となった選手達の心情を思うと大変複雑な気持ちになります。
連日、誤審ともとれるような判定が少なからず問題になっています。日本の国技である柔道でも、技の判定や、指導の判定など審判の判断がどう傾くか微妙なケースが多々見受けられます。しかし、後でビデオでスロー再生された画像を見ると明らかに誤審であると思われるような事例もありますが、一度下った判定が覆されることはほとんどありません。
ルールが複雑になっているのに、人間が一瞬で判断することには限界がありますし、人間ですからミスをするのは当然です。それなのに、未だに一旦下された審判の判定を尊重する慣わしが強く残っているのではと思います。問題はオリンピックに人生をかけて辛く苦しい練習などに耐えて来た選手の立場になって考えますと、誤審はあってはならない筈です。
審判の個性によったり、同じ審判でもそのときの状況によって判断が異なることもあると思います。私は人間である以上、それは仕方の無いものだと思いますが、だからこそ、審判がミスをしてもそれをカバーする手立てを作って行くべきだと思います。未だに、審判は人間がやってこそスポーツだとか、審判を味方につけることも技術のひとつだとか、現状を肯定する人もおられるようですが、私は競技は人間がするものだが、そのルールに則った判定は科学技術を駆使して、ミスしたり、偏ったりしないような判定システムを構築すべきだと思います。それが、懸命に努力して来た選手が下された判定に納得いく為の方法だと思います。
例えば、問題の柔道における指導の判定は、AIプログラムを組めば、少なくとも、これでとらなかったのに、こんなのでとられたというような不公平はなくなります。それは人間よりも、膨大な情報を一定のルールのもとに処理し、一定に判断するからです。試合中の情報についても、死角が全く出来ないようなカメラの数、配置を決めれば可能だと思います。それでも完全だとは思いませんが、不公平さは完全に無くなると思います。また、機械を完全には信用出来ないというのであれば、機械の判定に人間が物言いをつけることが出来るようにして、集積された映像をじっくり確認し、最終判定することも可能だと思います。
協会の権威を気にするあまり、審判は協会が認めた審判がやらなければならないと言った協会ファーストの考え方など排除すべきです。あくまで競技は選手の為に考えなければならないのです。