女子フィギュアスケートのドーピング違反問題で、大きな波紋が拡がっています。騒動の中心にいる選手は15歳という年齢で、且つ金メダルの本命候補であったことで、周囲の思惑が入り混じって、複雑な状況が生まれています。真相は今後の調査を待つばかりですが、その結果が出る前に、オリンピックの競技が行われることでさらに混沌としています。
以前にも述べましたが、オリンピックが金儲けや国威発現などの道具に利用されて来たことが、このような根の深い問題を生んでいると思います。この機会に、オリンピック憲章を調べてみたのですが、「スポーツを通して調和のとれた人間を育てよう、世界平和を広めよう」というクーベルタンが唱えた基本理念は、非常に共鳴できるものでした。読み替えますと、スポーツを通じて、心身ともに健康な人間を造るというのは、教育の在り方を示しています。そのようにして育まれた人間は、国、人種、民族、性別などの枠を超えて、他人を尊重し、そのことで平和な世界を築いていくことだと思います。これは、新ハルモニア主義が唱える理念とも重なるところが多く見られます。
オリンピックはこのような基本理念のもとに開催されるべきものですし、IOCはその理念をしっかり守って、オリンピックを進めて行くことが求められている筈だと思うのですが、実際はどうでしょうか。オリンピックを金儲けの道具にしたり、一部の人間が贅沢に生活することや、一部の国の思惑に利用されるなどは本末転倒であり、バッハ会長はクーベルタンにどう申し開きするのでしょうか。多くの賢者?がオリンピック委員会を形成し、オリンピック憲章という憲法に照らして運営していく筈が、どうしてこんな状況になるのでしょうか。政治の世界、教育の世界も、実を伴わない綺麗事が横行し、現実には、一部の人間の富や権力を獲得する為に利用されているのとやはり同じ構図が見られます。
せめて、オリンピックくらいは、理想を実現していってもらいたいと思うのは民衆の微かな望みではないでしょうか。そのようなかすかな希望を踏みにじるIOC幹部や各国首脳を信じることは出来ません。オリンピックはアスリートと彼らを応援する一般民衆のものとしなければなりません。
「52.オリンピック改革の視点」で述べましたように、オリンピックをクーベルタンの理念に則った大会にするために、どうすれば良いか整理してみました。
① オリンピック委員会は、オリンピックの基本理念に賛同された善良なボランティアだけで組織化する。いずれのひとにも、必要最低限な経費以外、報酬などは支払わない。
② オリンピツク開催に関わる費用は、放映権料、入場チケット収入、個人からの寄付で賄う。逆に言えば、この収入内で賄える範囲の大会とする。
③ 大会に使用する競技場等は、出来るだけ既存の設備を活用する。
④ 国という単位は、出場者の割り振り、参加を決める予選を円滑に進める為には利用するが、アスリートは、個人又は競技に必要なチーム単位で参加し、表彰式での国歌斉唱、国旗掲揚は廃止する。
⑥ 大会の宣伝、開会式、閉会式に関しては、これまでのような多大な費用のかかる華美なものを排除する。
⑦ 開催都市、国家は、これまでのような競技実施への直接の費用支出は無くす。警備や、交通規制など、大会を円滑に実施できるような間接的な費用支出に留める。運営主体は、開催都市に居住するボランティア間の互選で選ばれた開催委員会の委員が担う。
⑧ オリンピックの位置づけは、単に極一握りのトップアスリートが競い合う場だけではなく、世界全体の人々がいろいろな場で競うことで、その競技を行うすべての人々が切磋琢磨する目標とし、そのことで、平和主義の人材を育成し、国境、宗教などを超えた絆の形成につながることを常に意識したものとする。
最後に、もう一度述べたいと思います。スポーツに打ち込むことは、その勝ち負けとは別に、自分自身の壁への挑戦という人材育成上、非常に重要なものだと思います(もちろん、その競技を好きであることで辛い練習も耐えられるので、スポーツを好まないひともおられるでしょうから、打ち込むものが、音楽、美術などいろいろなものでいいと思います。スポーツがすべてとは思っていませんが、非常に有益なものと言いたいのです)。その切磋琢磨の中で、いろいろなひととのつながりが生まれ、そこに国境など存在しないことを実感できることが本当に重要なことなのです。