パリオリンピックが閉会しました。いろいろな事がありましたが、選手達ひとりひとりの頑張りには敬意を表するしかありません。人生をかけてこの舞台に上り、その結果に喜怒哀楽する姿に心を打たれていました。メダリストという一握りの栄光に輝いた選手も、その背後に多数の敗者が存在したことも忘れることは出来ません。
しかし、この闘いに敗れはしても、みんな幸せであったと、そして、この闘いを観て、感動した我々もある意味幸せであったと思わざるを得ません。それは、ガザ地区で学校が攻撃され多数の死傷者が出たり、ウクライナでドローン攻撃を受けて殺されたロシア兵達のニュースがオリンピックのニュースの片隅で報じられているのを見たからです。
どうして、オリンピックのような平和の祭典を開ける人類が、その一方では、未だ殺し合いを続けなくてはならないのでしょうか。スポーツで決着をつけることと相手を殺して決着をつけること、どちらが良いのか答えは明らかなのに、それを止(や)められない国々とそれを止(と)められない国々がスポーツの場ではルールの下に勝敗をつけられる、その対比に愕然とします。
多くの人民を統治する近代国家が未だ殺し合いを犯罪ではなく、戦争だと言い逃れて、殺人を続けるということは、如何に人間が愚かで、賢明では無いことを示しているとしか考えられません。そのような指導者や権力者を平気で支持する国民がいることにも理解出来ないのです。いずれ自分達も徴兵されたり、戦禍にさらされて、戦争に巻き込まれることにつながるとしても戦争を推進する指導者や政府を支持するとは正常な判断能力が欠如しているのでしょうか。
戦争で、直接殺し合ったり、被害に遭うのは、末端の国民であることを忘れてはいけません。長崎の原爆記念式典にイスラエルが招待されなかったら、親イスラエルの西欧諸国が大使の出席を辞めましたが、各国の上層部が核兵器の悲惨さを本当に理解しているのでしょうか。政治の道具として核兵器を認めているからこそ、本来は悲惨な犠牲者に哀悼の意を表す式典に、政治的な考え方を持ち込んで来るのでしょう(そういう意味では、長崎市も招待をするとかしないとかではなく、出席をするかしないかの確認だけすればいいのではないでしょうか。本当に追悼する気のある人にだけ出席してもらえばいいと思うのですが)。
各国の上層部の人達は、自分達は戦争の最前線に派遣されることも無いし、核兵器がもし使われても、頑丈なシェルターに真っ先に逃げ込もうと考えているのですから、そして悲惨なめに遇うのはいつも大衆という名も無い人達だということを我々一般庶民は忘れてはいけません。権力というものは恐ろしいもので、自分達だけは別格であると、国民、市民を道具として扱うのを歴史が証明しています。
このような未熟で、いい加減な世界に生きていることを充分認識し、砂上の楼閣であるかもしれませんが、この我々が生きている日本が平和であるということがどれだけ幸せかを噛みしめ、その楼閣が壊されることが無いように、国民ひとりひとりが、不戦の誓いを新たに、政治に参加し、政府を監視していくことが非常に大事な使命であることを決して忘れてはいけません。一番悲惨な目にあうのは自分達だという事を忘れずに。