自民党総裁選挙の話題が連日報道されています。10人以上が立候補するのではないかと言われています。一連の報道の中で、候補者の学歴、出身校が話題になることも相変わらず多いと思います。少し前の東京都知事選挙でも、小池氏の学歴詐称問題が話題になっていましたように、選挙の度に、いろいろな学歴に関することがニュースになっています。有名大学卒、海外の有名大学院卒や、反対にそれほど偏差値の高くない大学出身だからどうだとか言われている候補者もいます。
何故このようなことになるのでしょうか。それは、人間が他人を判断することにおいて、学歴や肩書を一種の目安とする人が多いからなのでしょう。つまり、中々自分の目で他人を判断することが難しいので、簡単に目に見える肩書を参考材料にしてしまうと言うことなのでしょう。また、候補者も、自分自身の人間力や政治的能力に自身が無ければ、肩書を飾って、少しでも多くの有権者にアピールしたいと考えるのでしょう。
確かに、有名大学出身者に優秀な人が多いことは、統計上、確率的に正しいかもしれませんが、しかし、ひとりの人間に焦点を絞ったとき、そのひとが優秀かそうでないかはどちらもあり得る訳です。だから、選挙の候補者という我々国民にとって重要な人物に対して、そのような指標を信じてしまうことは非常に危険だと思います。有名大学を卒業しても、国民の代表に相応しくない人もいますし、それほど有名ではない大学の卒業生や、それこそ高卒、中卒の人であっても、政治家として素晴らしい人も存在するのが事実だと思います。それなのに、学歴を信じてしまうのはあまりにもリスクが大きいと思います。
それでは私はどうしているのかと申しますと、人間は肩書などではなく、その人の言動と行動の中にその人の真の姿につながるものがあると思って、候補者をしっかり観察することにしています。そういう意味で言えば、どこの大学を出たとか、首席で卒業したなどとひけらかす人物には注意します。彼らは、本当に重要な政治家としての資質や展望、具体的な政策に自信が無いから、そのようなうわべのものに頼ろうとしているのだなあと考えてしまいます。そして、そういう風に思えば、その人の言動を注意深く聞きます。なるべく多くの言動を観察しますと、本気で言っていないことであれば、その言い方に胡散臭さがあったり、その逆の意識が見え隠れするのです。そう言う意味では、テレビに出たときなど、司会者から答え難い質問を問われたときの受け応えや、ライバル候補とのやりとりには、その仕草や表情も含めついつい本音が出ることが多いと思います。
前回のブログで、選挙のやり方を変えるべきであると主張しているのは、表向きの顔で通用する今の選挙のやり方から、候補者の本音を探れる方法に変えて行くことが最も重要であると思っているからです。