ニュースで、街中での殺傷事件が少なからず報道されています。加害者が被害者を激しく罵りながら行為に及んだケースが多いのですが、人間が何らかの怒りを感じ、犯行に及んだのです。最近、怒りを爆発させて、取返しのつかないような行動に走る人が多いと思います。

 私は、以前のブログ「505. アンガーマネジメント」で、怒りは大きく分類しますと、人のなんらかの行動が自分に悪影響を及ぼす場合と自分の思い通りにならない場合があると述べていますが、特に後者は、いろいろな事柄や他人の行動に対して、期待してしまうこと、そしてそれを裏切られると怒りにつながると思っています。

 我々は、不景気が続いているとは言っても、みんなある程度の教育を受け、そこそこの生活(象徴的なのは、子供の頃からスマホを持って、ネット社会に親しんでいます)を享受出来ていまして、人権などあまり無かった時代に比べ、一人一人個々として大事に育てられ、自我が強い世代かもしれません。そのことで、自意識、承認欲求、自己顕示欲などが過剰になりやすい傾向があると思います。自分自身のことを大事に思うことは遺伝子レベルでも当然のことではありますが、それが現実を無視するように過剰に働くことは大変危険だと思います。実力以上に自分を評価したり、飾ろうとすれば、そこに無理や矛盾が生じて来ます。いろいろな点で自分の思った通りにはならないのです。重要なのは、自分自身を客観的に見られる判断力を養うことなのです。しかし、今の受験システムの中では、試験の点数がいい、偏差値の高い学校に入学、卒業出来た、有名な会社に就職した、難関資格を取得した、花形職業に就いた、などと言ったことがあると、数多ある能力の中で単なる一部の能力が高いことをもって、全方面、全人格的に優れていると勘違いしてしまう人がいます。そのような認識の人間であれば、他からの自分の評価が自分が考えている程高くない場合、思う程成果を出せない場合、それを他者(社会、会社、上司、同僚、顧客、家族、知り合いなど)のせいにし、それらに対して怒りを沸騰させるのです。受験に失敗したものである場合も、自分はもっと出来る人間なのにと、そうでないのを親や教師や友人などのせいにして、怒りを抱きながら、ニートになる人もいるでしょう。そうです、残念なことに自分自身を客観的に見つめる為の教育は為されていません。そして、人間はすべてを備えている人など存在しない、それぞれ得意な部分と不得意な部分を持っていることをきちんと認識し、教育現場で、自分自身の長短を判るような指導をしなければならないのです。

 それなのに、評価の物差しが受験学力一辺倒であれば、勘違いする人間を多数生み出してしまうのだと思います。最近の典型的な例では、兵庫県知事の振る舞いはまさにそれに当てはまるような気がします。自分は優れている、だから自分のやることは正しい、それなのに部下達のやることが自分の思ったようにならなければ、すぐに怒り心頭になり、部下達を叱責、罵倒するのでしょう。彼は東大を卒業し、総務省のキャリアとして任官し、そして兵庫県知事として当選を果たしました。それらのことが彼が自分のことを全能の人間であると勘違いさせて来たと思います。だから部下達を能力の無い駄目な人間と軽蔑し、そんな人間は自分の言う事に従順に従っていればいいのに、その通りにやらない、ましては反旗をひるがえすなど考えられない愚挙だと考えたのでしょう。

 まとめますと、怒りの多くは、自分自身を過大評価し、他人が自分の思う通りにならなかったら起きることが多いのです。それに対して、自分自身を客観的に見ることが出来れば、他人の立場に立って考えられるようになる筈ですが、今の教育は受験学力ばかりを高く評価してしまい、その結果、勘違いする人間が増え、その勘違いの先に怒りが存在するのです。


投稿者

弱虫語り部

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