兵庫県知事の百条委員会での強気の答弁の根拠は彼の行動は弁護士にも確認し法的に問題無かったことにあるようです。実際は法的にも問題はありそうですが、気になったのは、もしも法的に問題が無ければ何をやってもいいともとれる彼の考え方です。さらに、道義的責任についても、道義的責任の意味が分からないと言っていることも、彼の判断技術は法的にどうなのかだけのようです。
日本社会は法治国家として、法を中心に人間の行動が正しいかそうでないかを決めています。しかし、私は法がすべてだとは思っていません。元々、法律は、我々人間が公正で公平な生活をおくる為に、決められたルールです。と言って、法律はそのときどきの社会ニーズにより決められているものです。ですから、絶対的なものでもありませんし、全く不備が無いと言う事ことでもありません。ですから、首長も含め政治家は法律遵守であれば、国民を守ることに対して灰色なことでもやっていいと考えるのは間違いだと思うのです。そこに道義的責任が存在するのです。そして、それこそ人の道に反することは例え今の法律では罰せられないとしても、襟を正して行動していくことが人民の代表として、人民の上に立つ人間に求められることだと思います。本来、政治家にはそれくらいの人格を求められるものだと思います。
また、政治家は法律や条例を定める権限を持っています。今のルールが未来永劫、絶対的に正しい訳では無いから、そのようなことが必要なのです。それが理解出来ていれば、法的に正しいことがすべてであると考えることは全く政治家としての役割を理解していないと言えるのです。
すべての人間が公正に公平に行動出来るのであれば、法律などというルールは必要ありません。ルールを守らない人間がいるから必要なのですが、過去の事例から、人間はどのような正しくないことをするのかを判断し、それに対応してルールは定められて来たのです。しかし、人間の営みは多岐に渡っていますし、人間を取り巻く環境も刻々と変化して行きます。そこで、その変化にルールが追い付いていないことが多々あります。そのようにしてルールの抜け道が出来てしまうのです。だから、人として正しい道を行くのと法に触れないのとは厳密には異なるのです。人の上に立つものは、人としての正しい道を歩み、人民にその道を踏み外さないように導くのが本来の役割なのです。
だから、少なくとも人の上に立つ政治家などは道義的責任を常に意識して行動していかなければならないのです。